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御法度
監督:大島渚
2000年1月9日(新宿ピカデリー2)

 狂気に至る共同幻想集団



 過剰な共同幻想集団の無自覚な「狂気」の表徴として頽廃的な諸事、とりわけ「男色」が用いられるのは別段珍しいことでもなくて、ルキノ・ヴィスコンテ監督の作品など眺めていると、ナチズムがそのように描かれていたりもします。世の中のあらゆる事象が「共同幻想」に過ぎないという話はさておくとして、過剰な「共同幻想」を描く集団がある種の「狂気」を内包しているのは間違いのないところ、それは、時として「反社会性」にまで発展してしまうカルト教団の所作など眺めていれば容易に知れることなのですが、しかし、勿論、それを狂気として認識するのは、あくまでも「幻想外」に在るヒトの視点というのは言うまでもないことです。

 歴史的にみれば、幕末の治安を維持するために結成された「人殺し集団」であるところの「新撰組」というのも、やはり「狂気」にまで至っても何ら不思議ではない過剰な共同幻想集団、ナチズム同様、結果的には「負け組」なわけですから、「男色」でも「幼児性愛」でも、おぞましい狂気の表徴を以て描かれても何ら不思議はありません。むしろそのような集団が英雄視されてもいる日本という国は些か異質、勝った方にしても「勝てば官軍」とかいわれてしまっていますし、日本人的な心情として「判官贔屓」とかいうのもありますから、まあ、分からない話でもありませんが。
 尤も、すべてのヒトの視点が既に「幻想外」に在る「現在」を起点とした歴史認識というのは極めてアンフェアなものですから、「新撰組」に狂気を発見するというのも余り趣味の良いお話ではないのかも知れません。彼らにはおそらく何らの「思想」すらもなかったはず、それは駐車禁止を取り締る今日の警察官のそれと同じようなものでしょう。極論すれば、ナチズムもまた同様、「だから許される」かどうかは別問題だと思いますが、そこに「欠席裁判」にも似たカラクリがあるのは否めないところでしょう。

 大島渚監督の歴史認識を云々するのは余り意味がなくて、彼自身「ヴィスコンテに見せたかった」と発言しているようですから、おそらく、彼がその原作を読んだ際、まず第一に「ヴィスコンテ的」なものをそこに発見して、それに相応しい題材として映画化を目指そうとした、つまり、この作品に於ける「新撰組」は「ヴィスコンテ的」な作品を日本で製作するための、単なる「道具」に過ぎなかったのだと思ひます。感心するのは、むしろそういう視点に立てるということ、前々から日本人離れした作品を撮る監督だと思っていましたが、今回の作品を観て改めてそう思ひました。「欧州的」などというワケの分からない抽象表現は余り使いたくないのですが、今回の作品もやはりそのような印象、京都の撮影所で、日本人の俳優を並べて、日本の歴史上有名な集団を題材としていますから、何となく「日本的な映画」にもみえてしまいますが、映画の「構造」だけを残して、それ以外をそっくり「欧州」に置き換へてしまうと、あくまでも日本人の感覚としてですが、リュック・ベッソン監督の最近作などより余程「欧州的」な作品になっているはずです。私の認識が正しいかどうかはともかくとして、前作『マックス・モン・アムール』などを観ているヒトならば、何となく話が通じるのかも知れません。何れにせよ、この作品を抱えて勇躍カンヌに出撃するという大島監督、元来、欧州には彼の熱狂的な信奉者も多いことですし、ほぼ間違いなく高評価を得るであろうと予想しておきましょう。
 日本映画が欧州で評価される理由を「異文化に対する興味」などと片付けてしまうヒトも多いようですが、しかしそのテの認識は、溝口健二監督が欧州で「発見」された時代に於いても、既に誤り、欧州で評価される作品(監督)というのは、むしろ、極めて「欧州的」である故にこそ、なのです。北野武監督などその最たるものでありましょう。
 と、「欧州的」とは一体ナンなのか、その説明のないママ話を終わろうとしていることに苛立つヒトもいるのかも知れませんが、その説明ができない故にこそ、私はこうして雑記を書く以外に何らの術を持ち得ないのです。

 さて、作品的には、前半は特に、サイレント風の字幕を用いたり、意味があるのかないのか、「ワイプアウト(イン)」など駆使して、如何にも監督自身が映画を愉しんでいるといった感じ、久しぶりのことですから、余計そうなのかも知れません。観ている方も愉しくなります。あと、少し気になったと言えば、人物の「顔」を撮る際に、極端な「シャロウ・フォーカス」(焦点を極端に浅くして対象外の焦点をボカす撮り方)を使用、例えば、惣三郎と井上源三郎が二人で小川亭に向かう場面、道すがら前を歩く源三郎に焦点を合はせると、ホンの少し後ろを歩いているだけの惣三郎の顔の輪郭すらボヤけているという具合、他の場面でも人物の顔が画面から浮き出てくるかのよう、何となく不気味な感じですらあったのですが、仮に意図的なものならば、極めて個性的な人材を集めた配役を考え併せてみても、監督の意図としてやはり「顔」を撮りたかったということなのかも知れません。とても演技で選んだ配役とは思えませんから、監督が「顔」の存在感を重要視したという想像も、それほど妙なものでもないでしょう。そういえば、ナレーションを佐藤慶が担当、相変はらづ「大島組」なのでしょうか。と、作品を論じているのかナンなのかよく分からないのですが、とにかく、面白い作品だったと思ひます。ジワジワと加速する「狂気」が、最後には物語を渾沌に陥れるのかと思ひきや、意外と綺麗に纏まってしまったのが少し不満でしたが、あれはあれで良いのかも知れません。


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