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トゥルー・クライム
監督:クリント・イーストウッド
2000年1月15日(銀座シネパトス1)

 何故「シネパトス」なのか?



 私は長かった学生生活の後半3年間を銀座を生活の場面として過ごしました。自らの撒いた種とはいえ、学費と生活費を捻出しなくてはならない「苦学生」だったわりには、多少要領の良いところもあったのかも知れませんが、生活自体は「苦学生」のイメイジとは程遠く実にラクチンなもの、その時点で既に現在に通じる「脱社会的存在としての自我」を確立していましたから(「自己暗示」の一種なのでしょう)、お先真暗なはずの将来に対する不安などホンの少しもありませんでした。そのお気楽な不逞学生が銀座という歓楽街で何をしていたのかといえば、毎日のように映画館にアシを運んでダラと映画など眺めていたのです。「シネスイッチ」や「並木座」(既に廃館になっています)まで徒歩数分という恵まれた環境に、「シネフィル」を自称するお気楽学生が暮らせばそうなるのも道理、尤も、それを目的に銀座を生活の場面として選んだわけでは決してなくて、その理由はそれこそ「生活」に直結したものでした。
 既述の2館以外にも、もう少しアシを伸ばせば「マリオン」がありましたし、さらに日比谷まで歩けば「シャンテ」が、前者には数へるほどしか行った記憶がないのですが、後者には回数的におそらく一番多く、そのヘンに私の「嗜好」が顕れているのかも知れません。銀座周辺にはその他にも映画館が多数あって、その殆どに最低一度はアシを運んでいるような気がします。その中でも、「××を観た」という明確な記憶は残っていないのですが、非常に印象深かった映画館といえば、やはり「シネパトス」を置いて他にはないでしょう。何がそんなに印象深いかといえば、それは映画館の形状や立地、晴海通りという広い通りの左右を渡す地下道、というより、むしろ「トンネル」とでも表現した方が適当と思われるような奇妙な場所に、安普請の焼鳥屋とか「大人の玩具屋」と軒を並べて「シネパトス1・2・3」と小さな劇場が3館並んでいるのです。今はやはりもう廃館になっているのですが、八重洲にあった「スター座」というのも地下にあったせいか、劇場の中がやたらと下水臭くて、何よりもそんなことが強く記憶に残っていたりもするのですが、そのような「印象」という意味では、「シネパトス」も私の中では間違ひなく五指に数へられる映画館の1つなのです。銀座の比較的新しい映画館が、所謂「劇場型都市空間」の一部分として配置されているイヤミなシロモノだっただけに、余計「シネパトス」の環境としての「如何わしさ」が際立ってしまったのかも知れません。
 それでも、「シネパトス」は歴とした「ロードショー館」、同じ地域内の何館かで同時上映されるような余程人気のある作品(最近では『タイタニック』などがそれ)の3番目くらいの位置付けとして上映されたり、あるいは「単館上映」の類が封切られたりもします。「単館上映」といえば、件のイヤミな劇場とか、最近渋谷に林立している「ミニシアター」の類を想起して、何となく高尚な欧州映画の類が上映されるイメイジもあるのですが、「シネパトス」に関していえば、随分とうらぶれた感じというか、最初から「単館上映」を意図して配給される作品というより、大手で封切るには少し「足りない」作品が流れ着いて来るという具合、実質はさておくとしても、「イマイチなハリウッド映画」がその中心なのです。

 さて、本日その「シネパトス」で映画を観てきました。いうまでもなく、此処に至る不必要に長い「前置き」には、作品の質と上映館の乖離を強調しようとする意図が隠されています。不当というか不遇というか、何故この作品が「シネパトス」なのでしょう。アカデミー賞監督による極めて質の高い娯楽作品、ゴダール監督が賛辞を惜しまない映画作家だからといって、別に映画を「解体」しているわけでもありません。CG合成など駆使しておりませんし、彼にしては「アクション」が欠落した(年齢的にそれもかなり苦しくなってきましたし)どちらかといえば「地味」な作品なのかも知れませんが、それにしてもしかし、この不当な扱いの低さには温厚なワタクシをしても怒りすら覚えます。「結局は観客の質の問題」などとしてしまっては、話があらぬ方向に進んでしまひそうですから止めておきますが、何というか、そういうヒト達に支えられて成り立っている産業が生み出すものは、もはや少し前に「映画」と呼ばれていたものとはまた別の「映画」という…、と、表現を少し変えているだけで、言っていることは同じですか。まあ、あらゆる価値など相対的であるに過ぎませんし、「何が『映画』か」などとワタクシの如きが言及するのなど、不遜極まりない話なのかも知れませんが、それにしてもしかし、それが優れた「大衆的アプローチ」を有しているはずの作品だけに、その「歯車」のズレが気になって仕方がないのです。

 激しい土砂降りの夜道を若い女性が運転するクルマが走っています。その女性はラジオのチャンネルの選択に気を取られていたせいで、間近に迫った急カーブを曲がりきれません。急ハンドルを切ったためにクルマはスリップし、路上をクルクルと回転した揚げ句に停車中のトレーラーの側面に衝突、漸く停止したそのクルマのフロント部分は完全に潰れています。(クルマは炎上もしませんし、車中でグツタリしている女性のカットすら挿入されません)
 そこで場面が切り替わります。その場面での会話からその女性が単に怪我をしたのではなく、「即死」だったことが分かります。しかし、だからといって、先の場面がその会話に補完されることによって漸く成立するものではありません。むしろ、その会話に補完されなくては「即死」だったことに気が付かないヒトの感覚が多少ズレているのです。クルマのフロント部分は完全にペシャンコ、現実に起こった同様の事故の場合、運転者の生存率など殆どゼロに等しいはずです。つまり、「潰れたフロント」は「即死」を意味する記号であり、それを以て既に十分な「説明」がなされているのです。それでは些か不親切過ぎる、ダラダラと血を流して断末魔の叫びをあげる女性のカットを挿入して欲しい、と感じるヒトは、(私に言わせれば)残念ながら、これまでロクな映画を観てこなかったということなのかも知れません。単なる「状況説明」が過剰でギトギトした映画、一見映像が先進的に見えたりするものなど特に、やはり私に言わせれば、極めて「質の悪い」映画ということになります。しかもそういう作品は「説明」のバランスが異様に悪く、必要のないところで意味もなく映像を凝らし、本来必要なはずのところが等閑に、勿論、そうは言っても一応は映画館で上映されるレベルの作品ですから、それ故にお話が意味不明に陥ったりはしないのですが、しかし、観ていて非常に疲れてしまいます。欧州で評価される作品の多くは、その「説明」が極端に簡潔であったり、またその方法論が「一般的」でない故に、ともすれば「難解」とも理解されてしまうのですが、この場合、それはさておくとして、特に、一見ナンでもないような娯楽作品の場合、その映像による「説明」の巧拙が作品の質を決定するといっても過言ではありません。

 クリント・イーストウッド監督の作品には、「愚直」とさえ言いたくなってしまうくらい「映画的」記号が鏤められています。「ハリウッド映画の王道」などと表現されたりもしますが、それはハリウッドの「旧き良きスタイル」(決して「回顧趣味的」なものではなく)を「映画的記憶」として蓄積し受け継いでいるからに他なりません。彼が「説明」として我々に示す「記号」こそがそれ、酒場でオンナを口説き、今どきコロンボ警部も吃驚するようなボロ車を乗り回す、ともすれば滑稽なくらいに「映画的」な記号に溢れているのが、彼の作品なのです。それを「大時代」などと断じるのは早計、表層が幾ら変質しようとも、その構造と方法論までもが変質したりはしないはず、映画などせいぜい100年の歴史、新千年紀に生まれた作品であれ、まだまだ「映画的記憶」の総体でしかあり得ず、その「最良」を汲み取った作品こそが優れているのなど言うまでもないことでありましょう。

 さて、肝心の作品の話なのですが、この私、ディテールにキチンと注意を払っていれば発見できたはずの伏線をどうやら見逃していたようで、最後に「逆転」のあることに気付かず、途中まで『許されざる者』のようなイロニーを以て成立する作品だと勘違いしていました。まあ、最後はキチンと「正統派」らしい結末、ただ、それがしかし決して「メルヘン」でないのは、救はれたはずの一人のイノチが、その映画の枠内に於いては結局差し引きゼロにしかならない故、遠因として作品の冒頭であっけなく死んでしまう女性(先程引用した事故の場面)の存在があったことを思ひ出さなくてはなりません。そういうところに監督の死生観のようなものが顕れていると言えるのかも知れません。
 例えば「クレヨンの場面」とか、細かい演出とか「映画話法」にまでイチイチ言及していたらキリがありませんから割愛しますが、とにかく「的確」で「上手い」としか言い様がありません。重ね重ねも「何故『シネパトス』なのか」と、私のようなものですら、映画の未来を憂えてしまいます。


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