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ジャンヌ・ダルク
監督:リュック・ベッソン
2000年1月16日(新宿ピカデリー1)

 無神論者の横暴



 私は随分とズボラな人間で、同居氏が不在の時など電話が鳴っても受話器を取りませんし、インターホンが鳴っても無視、それが同居氏宛の宅急便だったことが後で判明したりすると、「どうして出てくれなかったの!」とか怒られたりもします。最近では宅急便屋も巧妙になったようで、インターホンを鳴らしても出ない場合は、即座に各自が持たされているケータイで当該宛先に電話を、つまり「居留守」を疑ってのことなのですが、これにコロとか騙されて、玄関先の宅急便屋に「居留守」を咎められてしまうヒトもいるようです。まあ、御苦労は分かりますが、余計なお世話、「沈黙は即ち不在である」と直ちに了解するのが「オトナ」でありましょう。
 似たような話、でもないのですが、ある種のヒト達に於いてもやはり「沈黙は即ち不在である」という道理が通じないよう、遠藤周作の『沈黙』とか、イングマール・ベルイマン監督の「神の沈黙三部作」などで扱われている主題がそれです。この場合だと、前者は肯定、後者は否定と、それぞれの立場から「沈黙」を扱っているのですが、おそよ宗教とは縁遠い環境に育った私にしてみれば、そもそも「沈黙」を以て何らかの解釈が成立すること自体が不可思議、神様も私のようにズボラということなのでしょうか。

 さて、「神のお告げ」に従って救国に立った少女が、しかしその途中で「お告げ」の矛盾に気が付いて懊悩する。戦争を促しておきながら、一方では「汝殺すなかれ」と、その恐るべき矛盾に対して、当の本人は「沈黙」を以て意思表示、最後には火刑に処される少女をみて「ジャンヌが可哀想」とか涙を流す婦女子もチラホラ、こんなマヌケな映画もあったりするわけです。とにもかくにも支離滅裂、ベッソン監督はおそらく無神論者なのでしょう、「沈黙」をここまで悪用するヒトも余りいないような気がします。何故その必要があるのかといえば、それもこれも「ジャンヌが可哀想」という結論を導くため、御都合主義的にキレイ事を網羅した結果、神様がトンだ悪者に、それが無神論者の策略というやつなのでしょうか。
 無神論者なら無神論者らしく、最初から「神の不在」を前提とした「解釈」で物語を構築すべき、救国を促す「お告げ」に対しても、もう少し懐疑的な態度を示すべきだったのです。ジャック・リベット監督の『ジャンヌ』では、「お告げ」を含めたジャンヌの奇跡体験を、彼女自身の言葉(台詞)のみで(観客に)説明することによって、それが本当に「お告げ」だったのかどうか、あるいは単なる「幻覚」なのかも知れないという可能性をも示唆しているのですが、ベッソン監督の『ジャンヌ・ダルク』では、それを派手な映像で示し(しかもここゾとばかりのCG合成)、観客にその体験を共有させてしまっています。勿論、それを幻聴や幻視と解釈することも可能なのですが、まあ、かなり無理な注文ですし、どうみてもあれは「神の存在を信じよ!」という映像です。
 そのクセ、後になって「如何なる大義があろうとも、ヒト殺しはイケマセン」などと腑抜けた説教を、あのCG合成の神様の「お告げ」は一体ナンだったのでしょう? オマケにダスティン・ホフマンに「ジャンヌの良心」など演じさせて、「アレはキミの勝手な解釈に過ぎなかったのではないのか?」とか言わせる始末、「聖女」でもなければ「精神異常者」でも、ましてや「悪意の謀略者」でもない、「フツーの女の子」を捏造したいがためにナニもカニも捨ててしまったとしか理解が及びません。結局、「ジャンヌが可哀想」とかポロポロ涙を落とすヒトがこの映画の「ターゲット」だったということでしょうか、「ジャンヌ・ダルクなんて、所詮は男社会が作り出した妄想に過ぎないのヨ!」とか断じるフェミニストの方が余程好感が持てます。何れにせよ、「新解釈」などと宣伝文句に謳われているようですが、英仏国には数多いるらしい「解釈論者」には相手にもされない作品でしょう。監督にしてみれば、この歴史的に有名な少女の物語は単に「大作」を撮るための「道具」に過ぎなかったわけですから。
 所詮は商業主義の世の中、観客の「共感」を得るために時代の「コード」を場違いな場面に持ち込むというのも十分に許容される「手法」なのだと思うのですが、それが余りにもお粗末過ぎたというのがこの作品の蹉跌なのではないでしょうか。それがこの作品に対する私の直截な感想です。それにしてもしかし、吉良邸に討ち入った大石内蔵助が、「やつぱりヒト殺しはイケマセン」とか改心して上野介を放免、にも関わらず切腹を命じられる世の不条理に「内蔵助が可哀想」と婦女子がホロホロと涙を流す、そんな新解釈の「忠臣蔵」があったら是非観てみたいところです。

 多分、学校の勉強は余り得意ではなかったと思われるベッソン監督も、一部で「映像詩人」など評されているのはさすがにどうかと思いますが、映像的には印象に残るものが幾つかありました。特に場面の切り替わりでの「立ち上がり」のショットなど、些か唐突過ぎると感じる向きもあるのかも知れませんが、個人的には気に入っています。ただ、やはり宣伝文句では「大迫力」などと盛んに謳われていた「合戦」のシーンは、何となく「クロサワ」か「スピルバーグ」の出来損ないのような感じ、そういったものを念頭に撮られているのが何となく感じられてしまうだけに、余計情けない具合でした。
 しかし、『ニキータ』のアンヌ・パリローもそうでしたが、リュック・ベッソン監督の映画に登場する(半分オトナになりかけの)少女は、どうしてああもヒステリックなのでしょう。あれがエスカレートするとデ・パルマ監督の『キャリー』になるというか、そのくらいの異常さです。その異常さは『サブウエイ』でクリストファー・ランバートが演じた青年にも通ずるものがありました。ベッソン監督というのは、少女の懊悩や若者の不明の憤りを「ヒステリー」を以てしか表現できないのでしょうか。あるいは単に監督の「趣味」の問題なのかも知れませんが、何れにせよ、私の「趣味」としてはチョット煩わし過ぎます。

 上映開始の5分くらい前に滑り込んだ関係もあって、既にロクな席がありませんでしたから、700円の違いで意外と人気薄の「指定席」で観ました。全部で100席くらいあるうち、利用されていたのは10席にも満たない程度、東京都の中心が「空洞」であるのと同様の「勿体無さ」でした。入場料と併せて2500円、ヤケに豪華なパンフレットが800円でしたから、合計で3300円、3時間近い長尺とはいえ、考えてみれば結構な道楽、それでもやはり「ビデオ」より劇場、私の数少ない愉しみの1つですし。


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