Index

 
夏物語
監督:エリック・ロメール
2000年1月24日(ビデオ、1996年)

 若者はひたすらに歩く



 私は比較的早足な方で、一人で歩くときは勿論のこと、誰かと一緒に歩いていても、その歩度を顧みることなくスタスタと、時折思い出して振り向くと、随分と遠くに相手の存在を確認しなくてはならないことも少なくありません。従って、歩きながら誰かと会話をすることなど殆どありませんし、あるとしてもケータイ越しの相手、傍目には随分とせっかちにも見えてしまう私のそのような態度は、特に女性になど頗る評判が悪いようです。相手に合わせてゆっくり歩くと、むしろ疲れてしまうというのもあるのですが、横並びでゆっくりと会話を愉しみながら歩くのもママならないのが都心の道路状況、そういうのは周りのヒトに迷惑をかけるだけ、私自身そういう連中に前を塞がれると、やはり苛々としてしまいますし。尤も、私の場合はエスカレーターや「動く歩道」でも決して立ち止まることはありませんから、単なる「せっかち」に過ぎないことを認めざるを得ないのかも知れませんが。

 この作品ではとにかくヒトが歩きます。そして男女の会話の殆どが歩きながら、一度の例外を除いて会話はおろか顔を合わせることすらない三人の女性と主人公の男性が、それぞれ街を浜辺を歩きながら、およそ恋愛に関する会話を、そんな場面が全体の半分以上を占めているのではないのかとも思われます。それ以外でも、何れも女性が運転するクルマの中で同様の会話が、とにかく「移動」しながらの会話が圧倒的に多く、何処かに腰を落ち着けてゆっくりと会話することは殆どありません。歩きながらといっても、それは恋人同士にあるようなゆっくりしたものではなく、随分な早足、相手がいつもこのくらいの早さで歩いてくれれば、私とて会話に応じることができるのかも知れません。

 物語は至って単純、海辺の街にバカンスに訪れた若い男性が、そこで知り合った二人の女性と、本来彼がその地で待っていたもう一人、それら三人の女性と微妙な関係を展開していくというもの、単なる「青春映画」といえばそうなのかも知れません。決して何が起こるというわけでもなく、極く在り来たりな風景の連続、既述の通り、彼らはひたすらに歩き、自我と恋愛に関する会話を繰り返すのです。

 エリック・ロメールといへば、「水」を綺麗に映す監督という印象を持っています。尤も、「水」といってもイングマール・ベルイマンやアンドレイ・タルコフスキーのそれのように、そこに何らかの意味を発見するようなものでもなく、また彼らのそれが何処にあろうとも「水」そのもののイメイジであるのに対して、ロメールのそれは河ならば河、海ならば海、と、決して「水」そのものとしてではなく、「水のある風景」としてスクリーンの色彩を豊かにします。『獅子座』に於いて象徴的に挿入される「夕陽に照らされたセーヌ川」のカットなど、モノクロ画面でありながら、黄金色にも見えたものです。夏の海辺を舞台としたこの作品でも勿論、殆ど全編、全カットの何処かしらに海が映っていたような印象さえあります。その「海のある風景」が美しいのはいうまでもないこと、それだけでも十分に価値のある作品でしょう。

 この作品がロードショー公開されたのは数年前、私自身、確か六本木の映画館でフランソワ・トリュフォーの所謂「ドワネルもの」が連続上映された際だったと思ふのですが、何度も予告編を観た記憶があります。その当時、確かに「観に行くつもり」をしていたにも関わらず、結局、観に行かなかった理由は思い出せないのですが、こうしてビデオで観た後になって、そのことを後悔しているのはいうまでもないことです。美しい夏の海を背景に男女がひたすらに歩く、こういう作品こそ劇場で観るべき、別に奇を衒っているわけではなく、やはり「見えるもの」が違ってくるのです。

 とにかく、夏の海とひたすらに歩く男女の姿が美しい作品です。勿論、会話そのものや繊細な演出によって描かれる心の動きも素晴らしいのですが、しかしそこに海がなく、彼らがカフェで会話をしているだけなら、この作品の魅力はおそらく半減してしまうことでしょう。夏の日と青春の時は短いのです。歩きながら合理的に、そうやって恋愛を語るのもまた若者の「特権」なのです。


Index