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ワールド・イズ・ノット・イナフ
監督:マイケル・アプテッド
2000年2月5日(新宿アカデミー)

 彼は「ドラマ」を拒絶する



 随分と以前に読んだ記憶のあるかなり出鱈目な映画評論の類に、トリュフォーとゴダールの作品の差違をして、その登場人物の特質にあるとしているものがありました。映画というのは大抵が2時間前後の長さ、そこに登場する人物はあくまでもその枠内に納められた彼らの人生の「断片」を我々に示しているに過ぎず、しかし虚構の存在とはいえ、その前にも後にも、我々同様にやはり人生は続いているわけです。スクリーンを介して出会う人物には二種類あって、我々にその「映画外」の人生にまで思いを至らせる人物と、必ずしもそうでない(その必要もない)人物、件の映画評論によるとトリュフォーとゴダールの差違は即ちそれ、どちらがどうであるというのは言わずもがなのことでしょう。
 その二人の問題はともかくとして、それら二種類の登場人物を分ける要因は様々、単に演出の稚拙さがそれに結び付いてしまう場合もあるでしょうし、また映画作家の意図としてそもそも「人物」に主眼を置いていない場合もまたあるのだと思うのですが、まあ、分かり易い話として、その作品、あるいは人物の「虚構性」の程度が関はっているのは間違いのないところで、我々の想像力の問題もあって、それが高ければ高いほど「映画内」の存在に止まってしまうものです。例えば、『オーメン』に登場するダミアン・ソーンという悪辣漢、シリーズ化され5年置きくらいに我々の前に姿を現したのですが、その度ごとに周囲の邪魔者を抹殺するのは分かるのですが、我々の目に触れない時間に於いてもやはり同様のオコナイをしているのならば、彼の周辺は死屍累々、余りにも目立ち過ぎてさすがに当局の目を誤魔化すこともできないと思うのですが、しかしかといって、スクリーンに登場しない間は大人しくしているというのも妙な話、と、彼の「映画外」の時間にまでイチイチ思いを至らせると矛盾だらけになってしまうわけで、それはつまり「考えるな」ということ、我々は5年置きに姿を見せる彼の人生の断片をのみ認識して満足を見出すべきなのです。

 さて、お決まりの「アイリス・イン」で二年ぶりに我々の前に姿を現した「007」ことジェームス・ボンド、彼もまたスクリーンの枠内に於いてのみ認識され得る存在なのだと思うのですが、しかし今回の作品に関しては、製作者の意図が少し別のところにあったようです。つまりジェームス・ボンドの活躍の枠を少し広げてスクリーンの外にも、作品のチグハグさはしかし、それが結果的に失敗に終はったことを明確に示しています。今回の作品は、一部マニアに評判が悪かったらしい前作の反省から、ノーテンキなアクション一辺倒ではなく、「ドラマ」の要素をそこに盛り込むことが意図されていたようで、ソフィー・マルソーとロバート・カーライルが演じる敵役の男女などマサにそれ、「スペクター」に代表される旧来の敵役とは違って、「映画外」の時間をもまた有した、俗な表現を借りれば「深みのある」人物として描かれています。その二人にジェームス・ボンドを加えた三者による歪んだ三角関係こそが、本来この作品の軸となるべきなのでしょうが、ジェームス・ボンドが頑なにその「ドラマ」への参加を拒んだ故に、作品自体がチグハグになってしまったのです。彼は何故その「ドラマ」への参加を拒んだのか。彼と彼の存在を任された監督が、それによって生じる「矛盾」を恐れたからではないでしょうか。過去18作によって培われてきたあらゆる「約束事」とその「ドラマ」は明らかに矛盾しています。あるいは監督が小心だったのかも知れません。この作品が『女王陛下の007』のような「異端」扱いされては立つ瀬がない、そんなココロ持ちが「ドラマ」への参加をギリギリで踏み止まらせたのかも知れません。何れにせよ、作品自体はチグハグになってしまったものの、そのお陰で今回もまた「ジェームス・ボンド」は健在だったとも言えるわけで、また、宙ブラリンになってしまった「ドラマ」が、皮肉なことに、むしろいつものノーテンキなアクションを結果的に際立たせることにもなっていたような気がします。つまり、個人的には何の不満もなかったということ、観客の嗜好は様々なのでしょうが、私がジェームス・ボンドに求めているのは、ハリウッドでブルース・ウイルスやハリソン・フォードが演じている、観客と「苦悩」を共有するような「小市民的ヒーロー」ではないのです。

 メインとなる「お話」は大きいような小さいような、テロリストがロシアの核弾頭と原子力潜水艦を強奪してドウコウという話の割には、何となく「セコイ」感じがしてしまうのは、やはりその背景から(冷戦構造がもたらしてくれていた)至極単純な二元論が消滅してしまったからなのかも知れません。荒唐無稽さを許容する素地の喪失とでも申しましょうか。一時はアンジェイ・ズラウスキー監督の「性奴隷」の感もあったソフィー・マルソーも、このシリーズには相応しくない好演を、『ラ・ブーム』の時が13歳だったようですから、それから既に20年近く経っている現在でもまだ30代前半、あのような役柄に違和感がないのも道理です。敵役のロバート・カーライルは『トレイン・スポッティング』にも出演していたヒト、そう言えば、『トレイン・スポッティング』にも「007オタク」の若者が登場していましたが、イギリス人にとってのジェームス・ボンドというのもまた特別な存在なのかも知れません。
 先日訃報のあった「Q」のデズモンド・リューウェリンは、この作品で「Q」を引退することが予め決まっていたよう、後継者の「R」も登場していましたし。ちなみに、デズモンド・リューウェリンはシリーズ19作のうちの17作に出演(『ドクター・ノウ』と『死ぬのは奴らだ』以外)、この作品の後にもう1本何かの別の映画に出演しているようですから、正確にはそれが「遺作」ということになるのでしょうが、おそらくは日本で公開されるような類の作品ではないのでしょう。

 公開初日の午後ということもあって劇場は長蛇の列、その中に「よもや」と思う集団が潜んでいたことに気が付いたのは、エンドロールが流れて漸くでした。誰に訊いても評判の悪い日本公開版のエンドロール、本来「テクノ版ジェームス・ボンドのテーマ」が流れるべきところが「ルナシー」の曲に差し替わっているからです。配給側としては当然ながら集客効果を狙ってのもの、しかし個人的にはむしろ逆効果にしかなり得ないと予想していました。が、しかし、エンドロールが流れる中、私は確かに聞きました、彼女らが「このためだけに来た」というのを。エンドロールの最後の方で「ぎゃあ」と狂声、何事かと思いきや、スクリーンには「ルナシー」のクレジットが、残念ながら配給側の「勝利」を認めざるを得ないようです。
 インターネットで調べたところによると、その件と関係があるのかないのか、件のロックバンドのメンバーの一人がこのシリーズの熱狂的なファンだとか。年齢的に私と似通っていることもあって、例えば、最初に劇場で観た作品が『私を愛したスパイ』だったというのも私と同様、何となく親近感を覚えたりもするのですが、だからと言って、職権濫用が許されるものでもありません。


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