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ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
監督:ヴェム・ヴェンダース
2000年2月6日(シネマライズ渋谷)

 曲線が描く「彼ら」の現在



 作曲家としてのセルジュ・ゲンズブールがユニークなのは、時代の流行に乗じてそのサウンドをコロコロと変える、その「無節操さ」にあります。そのくらいならば誰でも(例えば一時期のエリック・クラプトンが「サザン・ロック」や「レゲエ」を取り入れたように)やっていると思われるかも知れませんが、しかし、ゲンズブールの場合はそれがかなり極端、単に「取り入れる」というレベルではなく、時代に応じて全編レゲエやロックンロール(イエイエ)のアルバムを作ってしまうわけです。やはり「詩人」の意識が強いのでしょうか、当人に言わせれば、歌詞こそが重要で、それを「聴かせる」ために流行のサウンドを使わないテはないとかナンとか、そんなところが理由のようです。晩年になるとその傾向がマスマス加速して、ついには「メロディー」をも抛棄、流行のサウンドをバックに殆ど「朗読」に近いことを試みるに至ります。
 そのゲンズブールが50年代後半から60年前半にかけて積極的に「取り入れて」いたのが所謂「アフロ・キューバン」と呼ばれたキューバ音楽、それはつまり、その時代にフランスを始めとした世界各国でキューバ音楽が大流行していたことを意味します。私も余り詳しくはないのですが、「マンボ」や「チャチャ」などもそれ、あるいは現在では「ラテン音楽」として大括りされているものの中に含まれるのかも知れません。やはり詳しいことはよく分からないのですが、50年代にキューバ音楽が流行ったのは、一説によると当時まだ友好関係にあったアメリカの政治的な意志が大いに関係していたとか(『ゴッドファーザー・パート2』のハイマン・ロスの発言からも分かります)、その後パッタリと世界(西側)の音楽シーンからキューバ音楽が姿を消してしまったのもまた政治的なもので、まあ、コチラの方は随分と分かり易い話なのですが。何れにせよ、ポピュラー音楽の有名なジャンル、スタイルである以外のキューバ音楽について私が知っていることといえば、件のゲンズブールの曲くらいのもの、数年前にライ・クーダーが世界に「再発見」させ、グラミー賞まで受賞したらしい『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』というアルバムも、残念ながら聴いていませんでした。

 ヴェム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー作品といえば、『東京画』や『都市とモードのビデオノート』がそうであるような、監督自身による「一人称」のものを想起するのですが、この作品に関しては極めて「客観的」な視線を心掛けたようにも見受けられます。この作品の場合は、ライ・クーダーというもう1つの「主体」が既に在ることも勿論その理由なのでしょうが、「カメラ=私」と「彼ら」の関係ではなく、何よりもそこに在る「彼ら」を純粋にカメラに収めたかった故のことなのかも知れません。
 全編ハンディーカメラ(殆どがステディーカム)による移動撮影だったのはドキュメンタリー作品の常道だとしても、インタビューの場面でグルグルとカメラを移動させていたのは何となく演出ぽくて余計な感じ、コンサートの場面でステディーカムが美しい曲線を描いていただけに、むしろそれとの対比で、ハンディーにせよ、例えば顔のクロースアップのみとか、視点を固定させた方が余程良かったような気もします。まあ、個人的な事情を1つ挟めば、ハンディーでグルグルと移動する画面はどうも苦手、「クルマ酔い」のようにアタマがクラクラしてしまうのです。尤も、パンフレットに転載されていた監督のインタビューによると、監督の認識として、この作品はドキュメンタリーというよりはむしろフィクションに近いものだそうで、カメラの向う側の「彼ら」にしても、実在の人物というより「虚構」として撮りたかったようです。従って「演出ぽい」カメラの移動も、あるいはそのヘンのところを意図した確信的なものだったのかも知れません。
 そういえば、作品の終わりの方で極めて「政治的」なカットが幾つか挿入されていたのですが、あれも何となく「余計」な感じ、ケネディーの人形を観て「誰だったかな?」というシーンはナカナカ愉快だったのですが。まあ、彼らが仮に不幸な時期を過ごしていたとして、その原因は間違いなく「政治」にあったといえるのでしょうが、「音楽」(商業主義的構造に従属する類のものではなく)の前に於いて、「政治」が取るに足らないものであることなど、今さら指摘されるまでもありません。
 何れにせよ、コンサートの場面でステディーカムが描いた曲線は「美しい」の一言、それだけでも劇場にアシを運ぶ価値のある作品だと思います。また、作品の冒頭、サイドカーに息子を乗せたライ・クーダーがキューバの街をオートバイで駆けるシーンも非常に印象的、「ロードムービーの巨匠」の面目躍如といったところでしょうか。

 余談ですが、エレキギターの奏法の1つに「バイオリン奏法」というのがあって、それはボリュームを「0」に絞った状態でピッキングして直ぐにボリュームアップ、つまりアタック音を消すことによって、弓で弾く弦楽器のような効果を出すわけなのですが、この映画でのライ・クーダーもそれを多用していました。何を問題にしているかというと、そのボリューム調整の仕方、今どき「ボリュームペダル」を使用するギタリストも多いようですから、「バイオリン奏法」もそれを活用すれば実に簡単、実際、私の知人もそのような「邪道」を実践していました。しかし、「バイオリン奏法」に於ける「正統」は、あくまでもギター本体の「ボリューム」を使用、右手の親指と人差指でピックを握って、小指でボリューム調整するのです。あるいはプロの間では当たり前のことなのかも知れませんが、ライ・クーダーもキチンとその「正統」を、そんな場面を目撃して何となく嬉しかったわけです。

 公開から既に3週間が経っているとはいえ、日曜日の午後で、しかも200人程度のキャパシティーの劇場での単館上映とあっては、やはり混雑も当然のことなのかも知れません。渋谷で映画を観るのなど随分と久しぶり、グネグネとややこしい坂のアタリで道に迷ってしまったこともあって、上映開始30分前に劇場に到着した時には既に長蛇の列、慌てて列の最後尾に取り付いて立見だけは何とか回避されたという具合でした。客層は随分と極端、マサに「老若男女入乱れて」といった感じ、「老」の方々というのは、おそらくキューバ音楽ブームを(あるいは作品に登場したミュージシャンを)リアルタイムで体験された人達に違いありません。若者の方はといえば、音楽系とシネフィル系と二種類いたような、まあ、何れにせよ、こういう作品にヒトが集まるというのは素晴らしいことだと思います。

 

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