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ブレア・ウィッチ・プロジェクト
監督:ダニエル・マイリック
2000年2月11日(新宿東急)

 ビデオ映像の矛盾



 私の父親は所謂「新しもの好き」で、特に、ビデオやワープロといつた家電製品など、大抵のものは世帯普及率で言えば10パーセントにも満たない時期から既に購入、私が子供の頃は、そのヘンのところで友人にも随分と鼻が高かったような記憶があります。父親の「新しもの好き」は、私が実家を離れて既に10年以上も経つ現在も余り変わっていないようで、それは私が帰省する度にビデオカメラが新しくなっているということをみれば明らかです。尤も、ここ数年は正月ですら帰省していませんから、我が家のビデオカメラ事情にもスツカリ疎くなってしまったのですが、おそらくは小型のデジタル式などがあるものと想像されます。その想像はむしろ希望的なもの、もし、私が数年前に目撃したのと同じビデオカメラをいまだ使用しているようならば、それはまた私にとって非常に寂しい話、やはり数年前のこと、「最近では映画に行くのも億劫になってきた」などと漏らすの耳にするにつけ、随分と寂しい思いをしたのですが、それと同じことです。「好ましからざる変化」から逃れられないのが人間、分かってはいても、そう簡単に許容できるものでもありません。
 私が子供の頃は、まだ家庭用のビデオカメラなど普及していなくて、一般家庭に於けるそのテの記録媒体としては銀塩カメラが主流、しかし、私の父親は随分と以前から8ミリカメラを所有(「映画好き」としての興味もあったに違いありません)、小学校の運動会で8ミリカメラを回す私の父親を得意に思う反面、何となく恥ずかしくも感じておりました。また、父親が会社の慰安旅行か何かで撮ってきたフィルムの鑑賞会が時折あって、それが何とも苦痛、壁に備え付けられた小さなスクリーンを指差しながら父親がアレコレと解説するのですが、私には最悪の体験としての記憶しか残っていません。
 私が高校生の頃には既にビデオカメラが、かって活躍した8ミリカメラが回されることも最早なかったのですが、ある時、旧いフィルムを大量に発見して、それを、やはりホコリのかぶっていた「編集機」でバサバサと切り刻んで遊んだ記憶があります。既にフィルムに対する興味を失っていた父親は、怒るでもなく、むしろ無反応だったのですが、今にして思えば、私は随分と勿体無いことをしたのかも知れません。小学生の私がドタドタと走る姿もそこにはあったわけですし。

 8ミリカメラの映像(あるいはそれを模した効果)を上手く使ふ監督と言えば、マーチン・スコセッシなどまず想起するのですが、ある時期に於いては極めて「映画的」な道具として活用されていたそれも、私の父親がそうしたように、映画に於いても、現在ではビデオカメラにその立場を譲っています。ホームビデオと言わず、旧来から引用されているテレビ映像、あるいは『ニキータ』や『HANA−BI』でも活用されていた監視カメラのビデオ映像など、犯罪映画に於ける重要な「映画言語」の1つとして既にその地位を確立していると言っても過言ではないのかも知れません。しかし、それらはあくまでも「道具」として活用されるべきであり、また、そうであるからこそ意味を持ち得るわけで、全編がビデオ映像の作品となると「果たしてこれは『映画』なのか?」とさえ思ってしまいます。

 私がこの作品を観ながら考えていたのは、冒頭に書いた私の父親に関する昔話と、「何故『新宿東急』の大スクリーンでビデオ(と16ミリカメラのモノクロ)映像を観なくてはならないのか?」ということでした。この作品がアメリカで大ヒットし、また、日本でも大々的にロードショー公開されているという疑問に対して、予想に反して大した混雑でもない館内の殆ど埋めている若いカップルの顔などチラと眺めて、「モノゴコロがついた頃から家庭用ビデオカメラの映像に慣れている世代というのは、こういう映像を『観せられる』ことにも然して違和感がないのかな?」と私なりの解答を得たりしていました。勿論、作品のデキが云々という話とはマッタク関係がなく、私が問題としているのは、(意味がある、あるいは意図的とはいえ)映画館の大スクリーンに粒子の粗いビデオ映像が映し出されているという矛盾、その奇妙な状況、そして、それを許容し、この作品に興行的な成功をもたらした「観客」なのです。これほどまでの成功など予想もしていなかつたらしい製作者は確信犯ではありません。「ビデオが売れれば御の字だと思っていた」(そもそもビデオ向けの企画だったのではないでしょうか? ならば何の文句もありません)と発言しているらしい監督の言葉にも嘘はないでしょう。それだけに尚さら、この作品に興行的成功をもたらした、それこそ「犯人」である「観客」に対する違和感が増幅されてしまうのです。
 余談ですが、デジタルビデオによって撮影された映像でも、今どきの高度な処理によってフィルムに変換されれば、素人目にはフィルム映像と何ら見分けがつかないくらいのものが出来上がるようです。

 その「映像」の問題を抜きにして、何らか論じることが許容されるのならば、ナカナカ良く出来た作品だと思います。アイディアも面白い(決して新しくはありませんが)と思いますし、実際にはかなり考えて撮られ、編集されている作品であることは間違いありません。カメラを2台(ビデオと16ミリのモノクロ)使うことによって、「一人称」の不完全さを丁寧に補完していますし、私が観た限りでは(当たり前の話ですが)その設定に矛盾したカットは1つもありませんでした。ただ、設定に忠実である余り、セッカク2台用意されたカメラのうち、16ミリの方がビデオの「一人称」を補完する以上には活用されなかったのが、個人的には残念でした。この場合、16ミリを多用することは即ち「リアリズム」の抛棄にも繋がるといえるのかも知れませんが、そもそも執拗にカメラが回されているという状況(それに関しては、作品の中でかなりシツコク「説明」が為されてはいますが)に無理があるわけですし、所詮は「リアリズムごっこ」を愉しんでいるに過ぎないのですから、多少の「逸脱」があっても別に構わなかったのではないかとも思はれます。ビデオカメラが一般家庭に普及した現在、粒子の粗いビデオ映像がある種の「リアリズム」を捏造する装置であることは認めるにしても、しかし、それが劇場の大スクリーンに映写されるという「矛盾」に満ちた状況に於いてすべては霧散、そんな「現実」など何処にもないことに誰しもが気が付くはずです。ホームビデオの映像は家庭用のテレビ画面に映してこそ「リアリズム」を獲得するもの、これは(監督も認めているように)ビデオ用の「企画作品」なのです。
 世間で騒がれているほど「怖い」作品とも思いませんでしたが、そのような評価を受けていることには理解が及びます。「一人称」による映像とは、即ち「私」を含めた全体状況を俯瞰するショットが1つも存在しない映像に同義、つまり「不安」を煽るには最適な方法なのですが、しかし技術的にはかなり困難、にも関わらず、それをかなり上手く仕上げているのですから、評価も妥当だと思うわけです。

 私はフィルムが暗闇に映すものにしか気を惹かれませんから、所謂「メディア・ミックス」というやつにもマッタク興味がありません。一昔前ならばテレビや書籍、あるいはテレビゲイムとの連関がその方法だったようですが、今どきはウエブサイトとの連関が流行のよう、この作品に至っては、公開前からウエブサイトが構築され、物語的にはその前後が色々と補完されているようです。劇場用のパンフレットも同じような「ノリ」で、上映開始前に監督のことでも調べようと開いてみると、女性週刊誌の「セックス特集」を想起させる「袋とじ」状態、「映画を観た後に開いて下さい」などと勿体ぶったことが書かれてありました。ペーパーナイフを使わずとも読めるところはといえば、やはり物語の前後を埋めるエピソードの類、そんなこともあったせいで、作品を観る前から少しガツカリさせられてしまいました。デビット・リンチ監督の『ツイン・ビークス』など想起するのですが、アメリカでの大ヒットの原因はそのヘンのところ、必ずしも作品自体の評価のみに因るものでもないのかも知れません。何れにせよ、私には興味のない話です。

 予想した通り、日本にもそのテのウエブサイトが構築されていました。ツマラナイ「研究」に嬉々としている輩もチラホラ、アメリカになど、そのテのサイトが有象無象存在しているのでしょう。唯一興味深かつたのは、国内サイトの1つに設置されていた掲示板での反応、半分のヒトは「面白くなかった」との感想を述べていました。ただ、絶賛しているのは、件の「映画外の研究」に嬉々としているようなヒト達ですし、他方、「面白くなかった」というのは、所謂「ハリウッド・スタイル」しか普段観ない、この作品の方法論自体に馴染まないようなヒト達、些か次元の低い論争のようです。
 話題作の日曜日午後の回でしたから、早めに行って指定席を購入しておくつもりをしていたのですが、どうやら「全席自由」に切り替えられていたよう、つまり「客足が極めて鈍い」ということです。アメリカでは口コミで人気が上がったようですが、件の掲示板の反応など眺める限りに於いては、日本ではむしろ口コミで人気が下がっているのかも知れません。繰り返すようですが、作品のデキとは関係なく、そもそも大々的にロードショー公開する類の作品ではありません。差し当たっては、配給者のセンスを疑います。


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