Index

 
シャンドライの恋
監督:ベルナルド・ベルトリッチ
2000年2月13日(シネスイッチ銀座)

 「揺れる視線」への回帰



 私が借りているマンションは駅から徒歩10分くらい、雨の日など仕事に行くのも億劫になるのですが、しかし、駅と言っても何処ゾの田舎私鉄ではなく、山手線の駅の話ですから、少し贅沢が過ぎる悩みなのかも知れません。それでも、駅から近いマンションにはやはり憧れるもので、先日も山手線のホームから間近に見えるマンションなど眺めてはいつの日か転居することを夢想したりも。ベランダから駅を見下ろせるマンション、騒音のない地下鉄の駅なら申し分ありません。

 殆ど閉鎖劇にも等しいこの作品に於いては、その舞台となる屋敷が何かと話題になっているようです。誰しもが言及するのは、シャンドライとキンスキーを繋ぐ美しい「螺旋階段」なのですが、私は件のような事情もあって、「地下鉄の駅から徒歩30秒」といふその立地が何よりも気に入りました。窓からは地下鉄の駅が、その直ぐ脇にはマクドナルドの看板、往来にはヒトが溢れています。勿論、それが印象に残ったのは「私の事情」ばかりではなく、私の映画体験の限りに於いて、そのような設定は極めて稀、殆ど記憶にないからです。ニューヨークなどの都会を舞台とした作品では、実際には登場人物のマンションが地下鉄の駅に近接していることも珍しくないのかも知れませんが、しかし、その関係や物理的な距離が特別に強調されたりすることなど滅多にありませんし、そもそも、そんなことが観客に知らされたりはしません。それは、駅から近い場所に屋敷なりマンションがあるという設定は「映画的」に色々と不都合がある故のことなのかも知れません。実際の生活がそうであるように、そのような場所に生活していれば自動車など必要ありませんし、また、通りを歩く時間も極端に短くなってしまいます。自動車や徒歩による空間の移動というのは「映画的」に極めて重要なシークエンスを生み出すもの、それらが排除されてしまうと、例へば「思い掛けず旧知に出会う」という場面を捏造するのもナカナカ難しいような気がします。実際、この作品でシャンドライが歩くのは、駅と屋敷の間のホンの数十メートルの往復のみ、屋敷内での閉鎖劇こそが主要とはいえ、その短い距離の間に物語的に重要な意味を持つ「骨董品屋」が都合良くも配置されていたりすると、何となく気になってしまうわけです。
 瑣末なことにばかり言及するようで申し訳ないのですが、シャンドライが大学と屋敷を往復する度に、(物語とは殆ど無関係な)地下鉄車内の短いカットが挿入されているのも何となく気に入っています。単なる「説明」ではないはず、実際のところの「意味」など私には分からないのですが、独り地下鉄に揺られるという、余り「映画的」とは言えない場面を私自身毎日体験していることもあって、そのカットが決して「無駄」でないことだけは何となく理解できます。
 ちなみに、件の「螺旋階段」に関しては、余りにも「映画的」過ぎて、個人的には些か食傷気味、勿論、それが舞台装置として実に効果的であるのは言うまでもないことなのですが、だからと言って、今さら「解釈論議」に参戦したいとも思いません。

 ベルトリッチ監督の前作を観た際に、「老境を感じさせる作品」と評したのですが、今回の作品を観始めて10分くらい経ったところで、そのことを思い出して少し反省しました。というのも、この作品を観て最初に感じたのが「若々しさ」であった故、そのような印象を持った一番の理由はやはりその映像、手持ちカメラと「躓きカット」の多用、最初の10分を観ただけでそのような印象を持つのですから、それらが如何に多用、強調されているかは容易に知れるところでしょう。
 余談ですが、「手持ちカメラ」の映像が何故「若々しさ」の記号となり得るのか、「映画史」に多少なりとも興味を持っている方ならば御存知の通り、それが彼の「ヌーベルバーグ」を意味する「方法」だからです。「躓きカット」にしてもまた然り、その真の発明者が誰なのかは知りませんが、まず想起するのは、やはり彼のゴダール監督、その不自然極まりない「ジャンプ・カット」がもたらす独自のリズム感は、映像の快楽を加速させる有効な装置と言えます。仮にそのようなことを御存知ない方でも、あるいはそこに「若々しさ」を発見し得るのならば、それらがもはや「映画史的な事実」の枠を越えて、広く目撃されているからに他ならないのでしょう。
 閑話休題。その手持ちカメラを最も有効に活用していたのが、キンスキーの唐突な「告白」の場面であることに異論のあるヒトはおそらくいないでしょう。意図的な「手ぶれ」と不安定な構図、カメラの「視線」による見事な心理表現は、その表層とは裏腹に既に安定を獲得した「技術」の成果に他ならず、「若々しさ」どころか、むしろ「老獪さ」を感じさせるものです。「掃除機の場面」に於ける「視線ショット」もまた然り、カメラが他でもない「創造の道具」であることを今さらながらに再認識させられました。

 ただ、これはあくまでも個人的な趣味の問題になるのかも知れませんが、前作同様、若い女性を描くに於いて、何となく「年寄り臭い」と感じるところもあって、例えば、シャンドライが「感謝の手紙」を書く場面、「サンキュー」で埋め尽くされていたり、最終的な「一言」とか、それはそれで、間違いなくこの作品の中で最も美しいシーンの一つだとは思うのですが(淀川長治が生きていたら、間違いなくこのシーンを絶賛していたでしょう)、それでもやはり、何となく「年寄りの発想」のように思われてしまうのです。若い女性に対するある種の願望というか、あるいは単に監督の「女性観」が顕れているだけなのかも知れませんが。しかし、何れにせよ、私の趣味と相容れないというだけの話、こんなシーンなど当然原作にはないはずですから、これを含めた多くの印象的なシーンは監督の創造によるもの、『シェルタリング・スカイ』で、やはり淀川長治が絶賛していたように、ベルトリッチというのは、原作にないディテールを創造する才に優れた監督と言って間違いはないでしょう。

 この作品と比較されるのは、やはり『ラスト・タンゴ・イン・パリ』、監督も当然それを意識していたはずです。時代や社会背景がかなり違っていますから、安易な比較も良くないのかも知れませんが、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』でのマーロン・ブランドの孤独より、この作品でのキンスキーの孤独の方が余程深いものであると、これを観ながらそんなことを考えていました。ブランドのそれが社会背景に裏付けられた「表徴」としての孤独であったのに対して、キンスキーのそれは、社会とは何ら関係のない、むしろ、その関係の稀薄さに根差した孤独、そんなふうにも理解できます。「許容された孤独」と「許容されない孤独」、そんなところかも知れません。

 今どき、ナンでもカンでもに冠されるイヤな語彙の一つに「ミニマル」(日本では旧来音楽のジャンルとしてしか使用されていなかったと認識しています)というのがあるのですが、早速この作品に対しても「ミニマルな映画」と表現する「浮かれ莫迦」がいたりするようです。その下等な言語感覚はもとより、そもそもこの作品が何故「ミニマル」なのか、その感覚をまず疑ってしまいます。作品の長さ、(台詞が極端に少ない)閉鎖劇にも等しい設定は、確かに「ミニマル」と表現するに相応しいような気もしますが、しかし、それはその対極にあるものこそを「普通の映画」とする認識に基づくに過ぎず、その認識に対して、私は得も言われぬ「齟齬感」を覚えます。この作品は短いといっても90分あります。「日曜洋画劇場」で放映される時は間違いなくカットされる場面が出てくるはずです。その一体何処が「ミニマル」なのでしょう。空間移動の程度、登場人物の数を言うならば、日本で公開されるヨーロッパ映画の殆どは「ミニマル」な作品ということになってしまうでしょう。勿論、その表現が、ベルトリッチ監督の近年のキャリアを踏まえてのものだということは十分に理解していますが、それにしてもしかし、そんな語彙を以て何かを表現できると思っているヒトには呆れるばかりです。

 この作品の音楽こそ「教授」に担当してもらいたかったと考える日本人は多いはず、勿論、私もその一人です。尤も、彼はベルトリッチ監督との作業を「イヤな体験」として語っているようですから、現実には望むべくもない話だったのかも知れませんが

 銀座での単館上映、日曜日の午後ですから当然ながら劇場は混雑していました。私が並んだ時には既に「立見」の宣告がなされていたのですが、私は一人でしたし「何とかなるだろう」と思っていたら、本当に何とかなりました。とは言え、スクリーンに向かって左端の最後列、劇場での座席の位置には然程拘らない私でも、さすがに参りました。立見のヒトは20人くらい、単館上映だからこその混雑なのでしょうが、もう少し公開の規模を拡大しても良さそうなものです。


Index