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2000年2月20日(雑記)

 何処で映画を観るべきか?



 今から100年程前に「映画」を発明したとされ、また「映画の父」とも呼ばれているのは、一般にリュミエール兄弟です。しかし、私が小学校で学習した記憶によれば、それは彼の発明王エジソンの発明の一つと、そこに奇妙な齟齬を発見します。また、半ば冗談のような話なのでしょうが、フランス人に質問すれば「リュミエール兄弟」と、アメリカ人ならば「エジソン」と答えるとも言われています。詳細な歴史的事実の検証はさておくとして(然して詳しくもありませんし)、リュミエール兄弟が、特に映画関係者の間でその発明者と認識され、「映画の父」とまで呼ばれている(実はエジソンもそう呼ばれているのですが…)理由の一つは、彼らがそれを普及させた「形態」にあります。エジソンが発明した「キネトスコープ」は、小さな覗き穴を覗き込んで、そこに「動く写真」を目撃するもの、そう言えば、子供の頃に訪れた温泉旅館で似たようなもの覗いた記憶があります。他方、リュミエール兄弟のそれは、現在のそれと同様、「動く写真」をスクリーンに映写し、複数の人間が同時に目撃できるもの、その上映形態の普及は、映画に「興行」としての価値を与えたのです。尤も、今にして考えれば、既に「トーキー」だったこと以外にも、エジソンのそれは実に先進的、何故なら、それが現在のビデオによる個人的な映画体験を予見しているとも言えるからです。何れにせよ、リュミエール兄弟の「発明」とは即ち、単に「写真を動かす」ことにあるのではなく、その上映形態をも含めた「興行としての映画」を発明したことにあるわけです。エジソンの「キネトスコープ」が普及しなかったのは、言うまでもなく、その装置が個人所有には到底及ばないくらい高価なシロモノだった故、現在、その立場がむしろ逆転しているとも言えるのは、実に皮肉な話です。

 さて、だからと言って「映画は映画館で観るべき」と言うつもりは毛頭ありません。その昔は、一部特権階級が「生」で聴くしかなかった「音楽」が、やはりエジソンの発明によって、一般に広く普及した例を持ち出すまでもなく、その普及形態の変化は許容されるべきですし、大抵の場合、「普及」という意味に於いては、その変化に伴い、間違いなく進歩を重ねているとを認めざるを得ないからです。また、今どき映画製作者にとっても、作品の「ビデオ化」は非常に大きな意味を持ち、例えば、興行の失敗をビデオで取り戻すという話も珍しくないようですし、もはや、ビデオがあるからこそ、斜陽産業と呼ばれて久しい映画が持ちこたえているとも言えるわけで、それがもたらすかも知れない「二次的な効果」への期待がなくては、そもそも劇場公開用のフィルムを製作することすら危ういのかも知れません。
 また、もっと単純な話で、ビデオでしか作品を観れないという状況もあります。私などは東京を生活の場面としていますから、国内で上映される大抵の作品は、劇場でそれを観る機会を与えられていますが、そうでないヒト達にとって、東京で単館上映される類の作品を観るには、余程のヒマと財力がない限りは、やはりビデオで観るしかないのが現実、逆に言えば、ビデオがあるからこそ、小規模上映の作品でも多くのヒトの目に触れるところとなり得るわけです。それが何処であろうと、映画はまず観れらてこそのもの、既述の通り、ビデオが作品の普及に大きく貢献しているのは言うまでもないことです。
 都心に暮らしている私とて、もはやウカウカしていられない状況にあります。ここ10年の間に廃館、もしくは休館になった都内の名画座は一体いくつあるのでしょう。私が実際に映画を観たことのある名画座だけでも(廃館になったものは)軽く10館は越えています。名画座ばかりではありません、分かり易い例で言えば、10年前に高田馬場駅前付近にあった4館のうち、現存しているのは「早稲田松竹」の1館のみ(駅前とは言えない場所にある「ACT」は勿論今も健在です)、本来、映画的に恵まれた環境にあったはずの人間でさえ、旧い作品を観るための選択肢がもはやかなり狭められているというのが現状です。それがビデオの普及に因るのは言うまでもないこと、勿論、単に旧い作品を観るというだけならば、ビデオの方が余程機能的、「数」を観る上でもそれは同じこと、私とてその恩恵に与っている人間の一人です。
 それでも尚、「映画は映画館で観るべき」とするには、もはや論理的正当性など期待しない方が賢明なのかも知れません。当然ながら、私はそういう結論に向かって、ここに文字を連ねているのです。

 このサイトの「表紙」で衒学趣味的に引用されているロラン・バルトの一節は、彼が映画館という空間での体験を讚えた文章からの抜粋です。同じ文章で、また彼はテレビ(家庭)での映画体験を非常に退屈なものと断じています。しかし、彼がその文章を書いたのは、「映画」が、テレビ放映されるそれとの協調を模索していた頃、今に比べれば随分と穏やかな時代(当時にしてみれば大問題だったにせよ)の話です。従って、今どきそんなものを有り難がっているのは、単なる懐古趣味と理解されてしまうのかも知れませんが、それでもしかし、映画館の暗闇が我々に与える快楽の意味は、当時も今も変わってはいないはず、彼の幸福はまた我々の幸福でもあるのです。

 さて、行き詰まってきました。そもそも「何処で映画を観るべきか?」などと大上段に構えたのが良くなかったのかも知れません。ならば、「何故ワタシは映画館にアシを運ぶのか?」に変えて話を続けてみることにしましょう。
 一つには、そもそもが「そういうものだった」というのがあります。家庭用のビデオが普及し始めたのが私が中学生の頃、高校生の頃になって漸く映画作品を含めた「ソフト」が出回るようになり、レンタルビデオが現在のそれと同等に機能するようになったのなど私が大学生になって以後、ホンの10年も前の話に過ぎません。従って、10年くらい前までは「映画は映画館で観るもの」というのが常識的な回答であり、そもそもこんな表題のテクストなど一笑に付されていたはずです。「そういうものだった」から、(既に状況が変わった)今でも「そうしている」というのでは、あるいは習慣の惰性としか理解されないのかも知れませんが、しかし、それは決して惰性などではなく、むしろその習慣から学習した結果として「選択」しているというのが正確なところです。私がバルトのテクストに共感を得るのは、私もまたその「快楽」を知っていると自負するが故、私よりホンの少し若い「ビデオ世代」には、果たして同様の共感を得る素地があるのでしょうか。それがない故にこそ、すべては「家庭」での体験で事足りてしまい、入場料の高さと、ホンの少しの不便さを理由に、映画館の価値を否定できてしまうに違いありません。それを「不幸なこと」とここで言っても嗤われてしまうだけでしょうから、そんなことは言わないにしても、例えば、好きなロックバンドがあったとして、CDばかり聴いていても退屈、機会があれば是非ライブに行きたいと思うヒトは多いはず、それと殆ど同じことを、私は映画に対して思っているわけで、ロックバンドのライブ会場が、ファンにとって「特権的」な場所であるのと同様、映画館もまた「特権的」な場所であり得るのです。ライブとCDは明らかに「ソース」が違うが、映画とビデオは同じである、それはフルボリュームのCDを武道館で聴くのと同じくらい無意味である、と、そんなことは言わないで下さい。コンサートホールで開演を待つココロ踊る時間を、映画館で得ることもまたできる、少なくとも私にとってはそういう場所なのです。

 もっと実質的なお話。予めビデオ化されることを想定して作られる昨今の映画は、例えば、テレビ画面用にトリミングしても違和感がないように予め構図が決められているのかも知れませんが、そういったこととはマッタク無関係に作られていた時代の作品や、最近のものでも、そういったことを必ずしも重要視せず、劇場での公開を第一義とした「良識的な」作品は、やはり劇場のスクリーンで観るのと、ビデオで観るのとでは、やはり「見えるもの」が違ってくるのではないでしょうか。「大迫力」とか、そんな阿房な次元のお話ではなくて、視覚に訴える「映像そのもの」として、それがどのような環境で何処に映されているかというのが、非常に重要だと思うのです。勿論、「映像そのもの」に然して意味のないような作品はビデオで十分、多分、一般に思われているのとは逆なのかも知れませんが、例えば『エピソード1』などビデオで十分(観ていないので軽々なことも言えませんが)、むしろ「何処で観ても同じ」と思われている「余り動的ではない」ヨーロッパ映画の類をこそ劇場で観るべきなのです。前者が殆ど物語を補完するためだけにある映像なら、後者は映像自体に意味が、後者をこそ最良の(映画作家の意思が正確に反映される)環境で観るべきなど言うまでもないことでしょう。
 余り良い例えでもありませんが、個人的な体験で言えば、フェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』という有名な作品、10代の頃にビデオで観たのですが、数年後に、確か「早稲田松竹」だったと記憶しているのですが、劇場で観直したところ、まるで印象が違っていました。映画の始めの方で、マストロヤンニ演じるグイドが駅に細君を迎えに行く場面があるのですが、その駅でのロングショット、劇場で観て、その駅の天井が如何に高いかということが分かりました。そんなことなどその作品に於いてはマッタク瑣末なことの1つに過ぎないのかも知れませんし、勿論、ビデオ画面が縦方向に圧縮されているわけもなくて、ビデオを観てそれに気が付くヒトも大勢いるのでしょうが、私がこんなテクストを並べている直接的な原因は、およそ10年前に発見したその「天井の高さ」にあると言っても間違いではないのです。

 ところで、私が「映画の感想」を書くに於いて、実は毎回ココロ掛けていることがあります。私が「イヤな人間」である所以、ビデオで作品を観たヒトには決して書けないことを必ず書くよう努めています。それは、映画館自体のこと、「混んでいた」とか「莫迦がいた」とか、まあ、どうでも良いようなことも多いのですが、しかし、私にとっての「映画体験」とは、映画館という「空間」もすべてひっくるめたもの、何年も前に観た作品でも、大抵のものは映画館の記憶と共に今でも私のアタマの中に残っています。それらの多くがもはや私のアタマの中にしか存在しない場所であるのは、「寂しい」というより他はありません。

 結局は私の個人的な「ノスタルジー」の問題なのかも知れません。映画を何処で観て、何を思おうとも各人の自由、そもそも「映画」というものに対して与えている価値がヒトによって様々、その「価値」によって、あらゆることが各人の意志に於いて決定されるというだけの話、「映画は映画館で観るべき」という宣言は、「映画をこそ最上の娯楽と思え」という宣言に同義、今さらながらに無意味なお話だったことに気が付きました。何れにせよ、これを眺めてくれたヒトの中に、ホンの少しでも映画館にアシを運ぶ回数の増えるヒトのいることを、何よりもの願いとすることとしましょう。


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