Index

 
パリ、テキサス(1984年 仏/西独)
監督:ヴェム・ヴェンダース
2000年2月24日(私の映画史 #1/100)

 極めて「畸型」な舞台装置



 凡庸にして、しかし重要な「映画的」表現の1つに「肩越しショット」というのがあります。二人の人間が向き合って対話する場面で、話をしている人間の姿を、それを聞いている側の人間の肩越しに撮り、その「切り返し」の連続によって比較的親密な対話の場面を表現するという、誰しもが知っているやつです。対話の導入部分では、大抵その二人を側面から撮った、つまり二人が同時に映っているカットが挿入されますから、実際の撮影現場でもその二人の俳優が向かい合っていることは疑いようのないことなのでしょうが、私などのように些か捻くれた人間は、画面手前に映っている人間の肩や耳が本当にそこに在るべき当人のものなのか、イチイチ疑ってみたくもなります。まあ、余程のことがない限り、そのような「トリック」を使う必要など何処にもないのだとは思うのですが、基本的に映画などトリックの連続、フィルムを切り貼りすることで如何なる状況、あるいは観る側の心理的状況ですら、簡単に捏造できてしまうものという考えが、私に無用な疑問を抱かせてしまうのでしょう。カメラという「虚構」以外の何ものでもない存在が縦横無尽に駆け巡り、そこにまた新たな「虚構」を生み出す、残念ながら、映画とはそれ以上のものではあり得ません。しかし、だからと言って誰も悲観的になったりしないのは、「与えられた虚構」に満足する術を、我々が既に獲得しているからに他なりません。それが「映画」だということなど百も承知なのです。

 しかし、時として「映画」は、そんなシニックな視線をも裏切ることがあって、それは例えば、向き合って対話する1組の男女それぞれの表情を正面から捉え、しかも1つのフレームに収めた時です。勿論、そんなことは物理的にあり得ないことです。正確には男の方が相手に背を向けて話をしている故に、そのようなフレームが生まれたに過ぎないのですが、しかし、間近にいながら相手の姿を確認できない特殊な状況の故に、女は男が背を向けていることなど知る由もないのです。訥々と「物語」を語る男と、次第に表情を歪めていく女、私の凡庸な言葉では語り得ない美しい場面です。
 そもそもが極めて「畸型」な状況、間近にいながら触れ合うこともなければ、片方は鏡に映った自分自身の姿しか確認できません。受話器を通して届けれる声は少し変調しています。勿論、物語的な必要からそのような特殊な状況が捏造されたであろうことは想像に難くありません。それでも、その場面が感動的であるのは、その畸型極まりない舞台装置が、幸福な結論を導くべく見事に機能しているからに他なりません。捏造された「距離」がすべてを説明し、その装置が一切の物理的障壁を引き受けることによって、彼らの関係は潤滑を得るのです。

 夜となく昼となく自動車は走り、モーテルの看板がそれを停止させます。時間を節約するために用意された「浮遊する鉄のカタマリ」は敢え無く拒絶されます。自動車がなければ歩きます。几帳面に並べられた靴にまで、カメラは愛おしげな視線を投げかけます。つまりこれはロードムービーなのです。子供はエンジンの停止した自動車の運転席に隠れ、普段殆ど眠らない男が肝心の場面で眠りこけてしまうのも自動車の中、男が覗く双眼鏡の先にあるのがトラックなら、旅立ちが決定されるのもトラックの荷台(この場面で「曲線の交錯」として映されるハイウエイは感動的です)、もはやこれは映画的記号としての自動車とその「運動」に対する偏愛に満ちた作品と言うべきなのかも知れません。「だからどうした?」と問われれば、「それが映画だ!」と答えるより他ありませんが。

 随分と以前に何かの雑誌で読んだヴェンダース監督のインタビュー記事で、彼はこの作品に於ける「8ミリフィルム」の場面をかなり後悔していました。彼は基本的に「フラッシュ・バック」の手法が余り好きではない、つまり映画的に時間軸を操作することを本意としていないようです。個人的な趣味の話をすれば、私はフラッシュ・バックを含めた映画に於ける時間軸の操作というのが大好きで、例えばタランティーノ監督の『パルプ・フィクション』など、そういったことだけでそこにある種の醍醐味を発見してしまいます。その趣味は映画だけに止まらず、福永武彦の小説が好きなのも殆ど同じ理由、彼の手法を少しも「実験的」と思わなかったのは、むしろそれまでの映画体験によって同種の方法論に既に慣れていたからに他なりません。何れにせよ、その記事を読んだ当時は「随分と瑣末なことを気にするものだ」と思ったのですが、今回、この作品を観直してみて、監督の後悔の意味が何となく理解でたような気がします。その場面は、私が印象として記憶していたより、時間的にかなり長く、また、この「物語」に於いて極めて重要な役割を負っている場面であることを今さらながらに再確認したからです。象徴的なのが8ミリフィルムの上映が終わった直後の場面、そこでの父親と息子の空間上の距離が、その少し前のカットとは明らかに繋がらない、単なる「演出ミス」かとも思ってしまうくらいの「近さ」にあることです。その場面を契機に二人の関係が再構築され、物語の展開を決定付けるのは言うまでもないこと、ただ単にフラッシュ・バックという手法の話ではなく、物語的に極めて重要な場面を安易にその手法に頼ってしまったことにこそ、監督の「後悔」があったに違いありません。過去を手繰り寄せ、現在の関係を再認識させるために、「過去そのもの」をそこに呈示するという演出が、彼には極めて「アンフェア」なものに思えて仕方がなかったのでしょう。

 脚本はサム・シェパード。彼の戯曲を幾つか読んだことがあるのですが、この作品にあるような「愚兄賢弟」とでもいうべき兄弟像の傾向は、他の作品にもみられます。極めて凡庸にして反動的な弟からみた、兄の相対的「異常」とでもいうか、否、むしろ兄を「正常」として描くことによって、弟の方が相対的に極めて凡庸な存在に落とされてしまうと言うべきか、何れにせよ、その凡庸さの正体が、纏うべき衣服としての「社会性」にあることは、彼の作品に一貫してあるものの1つだと言えるのでしょう。一般的には、兄と弟のこういった構図はむしろ逆のような気がするのですが、サム・シェパードが兄を「アウトロー」として描くのは、やはり実体験に基づくものなのでしょうか。凡庸な弟、他人事ではありません。

 私がこの作品を最初に観たのは公開当時ではなく、それから数カ月後か数年後、記憶は定かではないのですが、名画座(早稲田松竹)での上映に際してでした。何処の名画座でもこの作品が繰り返し上映されていたというのが当時の印象、つまり私が観たのは、この作品に対する一般的な評価が定まって以後、「世間の賛辞につられて」というのが正直なところです。確か、一緒に観た当時の知人は既に2度目か3度目、直接的にはその知人の薦めで映画館に足を運んだのかも知れません。それ以後、ヴァンダース監督の旧作を漁り銀座並木座で「小津」を観るという、極めて凡庸な「映画好き」の例に漏れない行動をとったような記憶もあります。同監督の『都会のアリス』を「涙が出るほど美しいモノクロ映画」と知人に吹聴して回ったのもその頃でした。そして、やはり凡庸な「映画好き」の例に漏れず、あの奇妙な「SF大作」以後、同監督に対する興味が些か減じ、先日の『ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ』で勝手に「再評価」するという、まあ、そんなところです。
 最近はそうでもないのですが、少し前までは仕事で松戸に行くことがタマにあって、その途中、千葉県の「新宿」という場所を通る度に、この映画を思い出していたことも、一応、付け加えておきましょう。


Index