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カリスマ
監督:黒沢清
2000年2月26日(テアトル新宿)

 モンタージュと親切さの抛棄?



 10年くらい前から抱いている疑問に「『映画を観る』とはどういうことか?」というのがあります。莫迦げた話と思われるかも知れませんが、しかし例えば、ある映画を観たとして、その映画のことを誰か他の人に説明する場合、その説明の仕方は大抵の人が似たり寄ったり、出演者等の名前を列挙した上で「物語」の説明に終始するのです。それは今どきウエブ上に数多存在する「映画のテクスト化」という作業に於いても同様、そのような場面に於いて「ネタバレ」に神経質になる人が多いというのが、その何よりの証左でしょう。勿論、何れの場合も「映像の言語化」という極めて厄介な作業の過程に於いて、そうならざるを得ないことは否定できないのですが、しかし、特別な意識を持って映画を観るわけでもない(つまり「普通に観る」ということ)人達にとっては、それが「映画を観る」に殆ど同義、つまり比較的言語化し易いもの(物語)を、殆ど「言語」に等しい形で記憶に留めることが「映画を観る」ということではないかと考えるわけです。尤も、「映画を観る」というのは、あくまでも「瞬間の連続」としての体験に他なりませんから、ここで俎上に載せているのは、あらゆる「体験」が過去形を以て記されるのと同様、正確には「映画を観た」ということなのですが、しかし、大抵の人達にとって「映画を観る」という体験は「既知」のものですから、そこに臨む姿勢は「映画を観た」から遡行される、つまり映像の言語化(物語化)を目的として劇場の椅子に深々と腰を沈めていると推測されるのです。容易に言語化できないもの、あるいは余りにも単純に言語化し得るものに遭遇した時、瞼が重くなってしまうのもそれ故のことに違いありません。さらに言えば、興行的に成功する作品というのは、その意味で非常に親切な、容易にしてしかし刺激的な言語に置き換え得る、あるいは、様々に言語化し得る素地を有し、その差異自体が有効に機能するものということです。バレては映画自体が殆ど無価値にも等しくなってしまう「ネタ=物語」にのみ支えられている作品とか、「チョットした映画好き」に嬉々として「解釈」を語らせる作品とか、まあ、そんなところではないでしょうか。
 こんな話を延々続けていると、肝心のことが等閑になってしまいそうなので、自主的に話を打ち切りますが、結論としてはそれを否定、およそ「意味」や「物語」の言語化に腐心することを以て「映画体験」とするのなど極めて「貧しい」所作であると断じることになるのですが、その話はまた別の機会にでも書くことにしましょう。実に単純な話、肝要なのは「観る」ことなのです。しかし、無用な動作のせいで、ともすればそんなことすら等閑にもなっている、あるいは観てもいないものを「観た」と断言してしまう、そんな誤謬が余りにも跋扈し過ぎているのです。映画作家が思わせぶりに呈示する「意図」や「意味」を完璧に理解することなど然して重要でもなく(勿論、できるに越したことはありませんが)、映画作家が「見た」ものと殆ど同様のものを「観る」ことこそ、私は常にそうありたいと願って、映画館に足を運んでいるのです。

 さて、今回は日本映画ということもあり、甘言を弄して同行者(「私」に関する予備知識を有している方にはお馴染みの女性です)を獲得、その同行者に作品の感想を問うたところ「難しかった」と返答したことが、上述の「前置き」に繋がるわけです。私がこの作品を少しも「難しい」と思わなかったのは、決して私の知性が彼女のそれを上回っているからではなく、「意味」を追い掛けることなど予め抛棄していたからに他なりません。勿論、お話の意味はキチンと理解しているつもりですし、私なりの「解釈」も一応は持ち合わせているのですが、そんなものはあくまでも映画館の外で考えたことであって、私はただそこに「在る」ものをひたすら観ていたに過ぎません。映画などそれで十分に愉しめますし(勿論、作品にもよりますが)、余程のことでもなければ「難解さ」とも無縁でいられます。作品に与える価値など人それぞれなのかも知れませんが、「ワケが分からん」と早々に断じて、この作品を投げ捨ててしまうことほど「不幸」な映画体験はありません。あるいは、難解に言語化された「解釈」を嬉々として論じることを以て「『カリスマ』を観た」と宣言する乱痴気騒ぎに参加することもまた然りでしょう。

 この監督の旧作をすべて観たわけではありませんが、多分、近年の作品の特徴と言えるのは「ロングショット(あるいは俯瞰ショット)の長回し」の多用なのではないでしょうか。「モンタージュの抛棄」と言っては大袈裟かも知れませんが、そう思ってしまうくらいの極端さがあります。その長回しの中で、俳優が上下左右に移動することによって、画面の構図が安定したり不安定になったり、時には画面から俳優が消えてまた戻ってきたりもするのですが、おそらくそれらすべては監督の「演出」によるものなのでしょう。例えば『CURE』の交番のシーン、ロングショットではないのですが、スクリーン左手前に椅子に座っている警官の背中を延々と映しているだけの構図として極めて不安定なものなのですが、その間、声だけが聞こえている「間宮」が、最後に右手奥の椅子に座ることによって漸く構図が安定するという、彼がその警官を「捕らえた」ことを「説明」するのにこれほど的確な映画的表現はありません。また、ロングショットや俯瞰ショットというのは、極めて客観的(中立的)な視点、この作品の冒頭、犯人が代議士を撃つショットは建物の外、格子窓の外から撮られているのですが、実際その場面に「主観」として立ち会っている人間がいないわけですから、そういうふうに撮るのは、映画作家がある種の「誠実さ」を有していれば必然のような気がします。過剰な「説明」や、「映画的」と勘違いされている「迫力」など、実際、取るに足らないものです。
 余談ですが、この「ロングショットの長回し」の映像自体に違和感を覚える人も多いに違いなく、何故なら、それはテレビドラマの類では殆ど活用されない手法だからです。テレビドラマで「ロングショット」が活用されない理由はおよそ2つ、1つには、昨今のヤツなど特に、ドラマそのものよりキャスティングに力点が置かれているフシもありますから、どうしても俳優(か何かよく分からない人も多いようですが)のクロースアップが中心に、実際、観る側がそれで満足しているのかどうかは分かりませんが、少なくとも、作る側はそんなふうに考えているに違いありません。もう1つは、私も学生時代にそのテのアルバイトをしていたこともあって、多少理解しているのですが、テレビドラマのセットというのは、基本的に低予算ですから、必要最低限の部分しか作りませんし、それとてかなりお粗末なもの、つまり「ロングショット」になど到底堪えないシロモノなのです。まあ、おカネをかければ良いモノができるとは限りませんが、もう少し何か、カネがなければアタマを使うくらいのことはしてもらいたいものです。

 これもまたこの監督の近年の特徴と言えるのかも知れませんが、この作品は物語的な意味での説明がかなり不足しているようにも思われます。「難解」と感じる人がいるとすれば、それもまた理由の1つに違いありません。「ロングショットの長回し」というのも映像的な意味での「説明」を極力排した手法ですから、多分、そもそも監督に説明する気がないのでしょう。やはり『CURE』からの引用になりますが、その作品の後半、突如として物語から「説明」が欠落し、およそ意味不明な展開になっていくのですが、しかし、それがある種の必然であるのは、実は簡単に説明がつきます。映画の中で起こっていた現象の「解説者」でもあった精神科医(うじきつよし)が死んでしまったせいで、状況を説明する人間が誰一人としていなくなってしまったからです。自身で「説明」する気のない不親切な監督なのですが、それではさすがに「マズイ」と思うのでしょう、作品の中に必ず「解説者」的な役割を持った人物を登場させます。『カリスマ』で言えば女性植物学者がそれ、しかし、うじきつよしのように中途で死んでしまうわけでもないのに、いつまで経っても説明不足が解消されないのは、彼女自身もまた物語の渾沌に同化してしまう故、もはやこの監督は完全に「親切さ」というやつを抛棄してしまったのかも知れません。勿論、無意味な言語化に腐心するのでもなければ、そんなことなど一向に気になったりはしないのですが。

 今どきヨーロッパで「クロサワ」と言えば、「アキラ」ではなく「キヨシ」のことだとか。また、この作品のパンフレットに寄稿しているのが蓮實重彦と山田宏一、あるいは些か権威主義的かも知れませんが、そんなところにもこの映画作家が如何に重要視されているかを知ることができます。当然ながら初日の劇場を埋めた殆どがシネフィル、「カップル」で観たのなど我々だけだったのではないでしょうか。「シネフィル」というより、あるいは「映画オタク」といった表現の方が余程的確ではなかろうかという連中、「ファッション」などというものとはおそよ縁遠く、口を開けば映画の話ばかりして周りからは変人扱いされているに違いありません。まあ、愛すべき存在だとは思うのですが、しかし、こういう世俗とは乖離したような連中が、日本映画の将来を担っているのかと思うと、何とも暗澹たる気分に、「日本映画の現状」を垣間見たような気がします。
 映画オタクが全体の9割を占めていたのはともかくとして、座席自体は全体の半分が漸く埋まっていた程度、公開初日、土曜日の午後でこのテイタラクですから、二週間くらいで打ち切りになっても何ら不思議はありません。このテクストを読んでもサッパリ作品の魅力を感じることなどできないとは思いますが、非常に良質な作品であることはこのワタクシが保証します。ですから、これを読まれた方で、都内在住の方は騙されたと思って映画館へ。是非。


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