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マグノリア
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
2000年3月5日(新宿ミラノ座)

 どうせなら「大嘘」を



 映画というのは紛れもなく虚構、従ってそこに「偶然」の入り込む余地など何処にもありません。偶然のように見えるものでも、あくまでも「偶然から逆算された必然」であるに過ぎません。分かり易い例が戦争映画、大抵の主人公は最後まで生き残るか、あるいは作品のラストで見事に絶命するか、まあ、そんなところなのだと思うのですが、戦場に於ける生死などそれこそ「偶然」が分けるもの、つまり「偶然生き残った」(あるいは映画の最後の方で最悪の「偶然」に出くわしてしまう)人間から逆算され成立する物語なのです。ノーテンキなアクション映画の類でも同様、主人公だから弾が当たらないのではなく弾に当たらなかったからこそ、その人間が主人公になり得たと考えるべき、そのような意味に於いて、映画の虚構性、非現実性というヤツは、ノーテンキなアクション映画であれシリアスな戦争映画であれ、ほぼ等質のものであると言えるわけです。

 群像劇ほど「偶然から逆算された必然」が有効に機能するものはありません。確固たる主人公の不在と「リアリスム」を連関させるというのは極めて「おひとよし」な発想、何故なら、群像劇というのは「弾に当たらなかった」人間を等価に複数登場させてこそ成立するもの、つまり、これほどの「嘘」はないからです。私の知る限り、最も潔かった群像劇は『ハイウエイ・パニック』(確か、そんな表題)という70年代のアメリカ映画。この作品はハイウエイで、ある大事故に巻き込まれた、それ以外何ら関わりのない人達の姿を、その事故の数時間前からそれぞれに追い掛けるもの、冒頭で予め大事故のシーンを見せているので実に分かり易い娯楽作品となっています。勿論、群像劇と言っても様々、必ずしも一つの「偶然」に収束することを以て成立するとは限りませんが、しかし、『マグノリア』の場合は明らかにそれ、そしてその「潔さ」は、あるいは『ハイウエイ・パニック』以上なのかも知れません。

 一つの「偶然」に収束するのではない類の群像劇というのは、登場人物各々の関係が予め分かり易いものであったり、あるいは、複数の「偶然」の連鎖によって成立します。この作品がそれらに相当しないことは言うまでもありません。「複数の偶然」という意味では、パンフレットに「相関図」が付記されていたように、「偶然」の関わりがそこにあることは間違いないのですが、しかし、その関係は物語的に殆ど意味を持ちませんし、少なくとも、それが物語に何らかのダイナミズムを与えているというわけでは決してありません。そもそも小さな町での出来事です、その程度の「関係」など、映画的な「偶然」を装うまでもない単なる「必然」としても、十分に許容し得るものなのです。さらに、この作品は、同時進行する複数の物語が一つに収束こともなければ、交錯することすらありません。しかも、それらの物語がアメリカ的「同時代性」を備えた(つまり極めて退屈な)似たり寄ったりのシロモノ、つまり群像劇としては欠陥品であるばかりか、そもそも群像劇である必要すら疑いたくなる作品なのです。

 さて、矛盾に満ちたこれら二つのパラグラフを繋ぐのは、勿論、この作品で唐突に訪れる「事件」です。何かと話題になっているその「事件」なのですが、しかし、映画的現象としては、然程驚くべきものでもありません。既述の通り、映画的「偶然」など所詮は嘘に過ぎません。群像劇なら尚更のことです。この作品の素晴らしさ、監督の優秀さは、そんなことなどとっくに見越して「どうせやるなら」と「大嘘」をついたところにこそあるのです。この作品は、監督のその「大嘘」に「偶然」立ち会った人達から遡行された物語なのです。これほど「潔く」且つ「映画的」な群像劇はありません。カタルシスを得たのは劇中の存在などではありません。この欠陥だらけの群像劇こそが、その「事件」によって見事に浄化されたのです。万歳。

 先日、アルフレッド・ヒッチコック監督の『鳥』がテレビ放映されていたのですが、彼の作品の中でも特にテレビで放映される機会の多い作品なので、私が観たのもこれで5度目くらい、すべてテレビです。最初に観たのは小学生の時、ヒッチコック作品を観たのは勿論それが最初、「作家主義」など知るはずもないその時から、「ヒッチコック」という監督の名前を特別なものとして記憶に留めたのは、一緒に観た父親がとにかくそれを強調していた故、確か「これはヒッチコックだから面白いゾ」と頻りに促していたような気がします。田舎町に暮らし、映画を週末の唯一の娯楽としていた私の父親が「作家主義」などという面倒な概念に関わっていたといたとは到底考えられませんから、その頃までにはそんな私の父親にとってすらその監督の名前が特別なものとなるくらいに、フランスのシネフィル達による一連の「政策」が功を奏したということなのでしょう。尤も、私の父親の場合、「ヒッチコック劇場」というテレビシリーズも観ていたに違いありませんし、単に「サスペンスの巨匠」という程度の認識だったのかも知れませんが。
 その『鳥』でも使用されていた(多分)有名な技法に「3段ジャンプアップ」というのがあります。ミッチの母親が農夫の死体を発見する場面、その死体を3段階にズームアップすることによっておよそ発見者(観客も含めて)の衝撃を表現するというヤツです。多少意味は違いますが、『日曜日が待ち遠しい』の中でトリュフォーもそれを使用、トリュフォーが引用しているくらいですから、この技法はヒッチコッック監督のオリジナルだと勝手に思い込んでいるのですが、考えてみれば、然程斬新な技法というわけでもありませんし、あるいはもっと古くからあるサスペンス映画に於ける古典的な技法なのかも知れません。
 さて、そんな話と『マグノリア』に一体何の関係があるのか、と、勿論、単に同様の技法が使用されている場面があったという、それだけの話です。警官が室内を物色して死体を発見するシーン、3時間を越す長尺の最初の方でそのようなものを見せてくれたお陰で後々への期待が高まった、という個人的な事情も付け加えておきましょう。

 オスカー絡みの話題とトム・クルーズの人気でしょうか、歌舞伎町一の大劇場もその殆どの席が埋まっていました。しかし、相変わらず千代田区方面を想起させる「空洞」を形成していたのが指定席、そのテの劇場での常として、私が指定席に座ったのは言うまでもありません。長尺であるという程度の予備知識もなしに観たこともあって、結果的に指定席に座って正解、1200円の追加料金など安いものです。


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