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人妻Mの秘密
監督:杉山太郎
2000年3月9日(ビデオ)

 そこに無いのはカネか才能か?



 さて、予め何らかの「註釈」を必要とするほど、このテクストが他人様の目に触れているとは到底思えないのですが、一応は「私」の名誉のためにも、そんな退屈なことから書き始めることにしましょう。今回俎上に載せているのは、表題からも想像される通り「ポルノ」作品、しかも、厳密には「映画」ですらなく、所謂「Vシネマ」というヤツ、その中でもさらにジャンルの特定されたシロモノです。同じ販売元は同様のビデオ作品ばかりを制作しているようで、あるいは「日活ロマンポルノ」など想起するヒトもいるのかも知れませんが、その「Vシネマ版」とは到底呼べないような、まあ、そんな程度のシロモノです。それでも、実際、レンタルビデオ屋での「所在」も違っていましたし、所謂「アダルト・ビデオ」の類とは差別化して論ずべきもののようで、内容はともあれ、一応はそれなりの「物語」があって、時間にして全体の1割にも満たない「性交シーン」は、そのどうでも良いモノにチラチラと挟まれている程度、あるいはこの世の中で最も必要とされない類のビデオなのかも知れません。世の中で必要とされないものは、当然、私にも必要がないわけで、それでも、わざわざそんなものを借りてきて、しかも、ベルトリッチや黒沢清と並べてここに何らかを記すのには理由が、この作品の監督が私の学生時代の知人、非常に懇意にしてもらった人物だからなのです。

 その他の、例えば文学などに比べて、映画が一般に「芸術」として認知され難い理由の一つは、実際そのテの作品の絶対数が少ない故、仮にあったにしても、人の目に触れる可能性がかなり低いからです。その理由は明白、映画製作には、やはりその他の「芸術」に比べて、莫大な費用が掛かりますから、その回収のために「興行」として十分成立することこそが大前提となる故、所謂「芸術性」から程遠くなってしまうのも道理なのです。あるいは映画とはそういうもの、映像表現が芸術性を有していることなど言うまでもないことですが、しかし「映画」という形式を前提とした映像表現は、その前提となっているものが大きく異なっていることを以て、やはり何らか「分けて」考えるべきものなのかも知れません。勿論、その両面を備えた優れた映画作家も大勢いるのですが、しかし余程のことがなければ、その名を歴史に残すには「両面」を兼ね備えている必要があるとも言えるわけで、「片面」の才だけで忘れ去られていった、あるいはそもそも世に出る機会すら与えられずに去っていた人など「星の数」に違いありません。文学には珍しくない「死後評価」も殆ど絶望的、映画で死後評価の対象となるのは、あくまでも興行として成立した何らかを残した人、その隠された「芸術性」が再評価されるに過ぎません。
 少し前まで、新宿の小さな劇場で坂口安吾の原作を映画化した手塚真監督の『白痴』が一般公開されていたのですが、生憎と私は観ていません。テレビの特集か何かでチラとその映像を観た限り、あるいは実際に観たというヒトの話を聞く限りに於いては、そこには極めて「実験的」な映像が、およそ「理解し難い」というだけの理由で「芸術作品」とも評されているようです。その監督に「芸術性」を云々すべき「才能」があるのかどうか、それを観てもいない私のような人間が軽々に断を下すべきでないことは分かっているのですが、しかしそれでも、確信を持って言えることがあるとすれば、彼程度のもの(慣れない人に「芸術性」を錯覚させるに足る程度に実験的な映像の寄せ集め)を撮れる才に恵まれた人間は他に幾らでもいるということ、実際にそれを「作品」にできる人間とそうでない人間を「分ける」のは、「興行」の必要を度外視し得るものの有無、つまりおカネがあるかないかの違いに過ぎません。手塚真監督が誰の「遺産」でその「実験的」な作品を制作し得たのかは今さら言うまでもないことでしょう。何事も運、不運が人生を分けることなど子供でも知っていることとは言え、私がその作品を観る気にもならなかった理由はそれ、そこに在ったのが「カネ」なのか「才能」なのか、あるいはその両方なのか、そんなことは知る由もありません。
 余談ですが、私は比較的以前から、もし何かの間違いで大金持ちにでもなったら、そのカネを若い映画作家にバラ撒いてやろうと、そんな道楽など夢想していたりもするのですが、私に言わせれば、それこそが正しいおカネの使い方、何処ゾの御令息にも教えてあげたいくらいです。

 一応は業務用のデジカムなのでしょうが、今どき家庭用のものでも然程変わらないのではなかろうか、という程度の映像。そもそもビデオ映像が苦手なこともあるのですが、やはり「超低予算」なのでしょう、照明が随分とお粗末なのがその映像をさらに悲惨なものにしています。学生の当時、彼とは一緒にバンドをやったことはあるのですが、映像関係で何かを見せてもらったことなどありませんでしたから、彼の「作品」を観るのも、勿論これが初めて、余計としか言いようない「物語性」の付随した退屈な三流ポルノに、彼の「作家性」を発見すべく眺めたのは言うまでもありません。作品冒頭の照明のアップから始まる手持ちカメラによるイヤらしい「グルグル撮影」とか、ホテルでの不安定な構図の固定による「隠しカメラ風」のショットとか、ディスコの場面での俯瞰ショット、雨の公園での赤い傘と海のロングショットとか、まあ、そのくらいが精一杯なのでしょうか。そもそもの制作者側の意図や、あるいは、与えられたお粗末な脚本で、もう一つ別の重要な目的を果たし得るべき作品を監督するということに付随する様々な困難、制約は理解に難くないのですが、それにしてももう少し何か、例えば、お誂え向きに用意されていた「喧嘩」の場面など幾らでも「遊ぶ」ことができたのではないでしょうか。そして、何よりも凡庸さを隠し切れなかったのは、この作品に何度も登場する自動車の場面。移動する車中から外を映すカットも悲惨でしたが、一番の問題は自動車が「停車」するところ。最終的にナンバープレートのアタリがアップになるような位置に固定されたカメラの前に「ギギギ」とか乱暴に停車するというのが何度かあったのですが、あんなふうに自動車を「停める」監督など余りみたことがありません。知らない人なら「コイツ、映画観たことあるのか?」と疑いたくなるような具合、もう少し勉強された方が…。と、相手が黒沢清監督とか北野武監督なら気にせず書けるのですが、ヘンに身近な相手だけに「だったらテメエで撮ってみやがれ!」とかいう身も蓋もないような子供じみた反論がより現実に近いものとして感じられるだけに、妙に腰が引けてしまいます。そこに無いのが「カネ」なのか「才能」なのか、あるいはその両方なのか、何れにせよ、上の「御令息」の話にも繋がるのですが、ポルノ映画であれ何であれ、もう少しマシな環境で撮らせてあげたいものです。

 尚、この杉山太郎監督は同様の作品を他に何本か撮っている以外に、篠崎誠監督の『おかえり』という、海外でも高く評価されたらしい作品で助監督も務めています。何かの機会に名前を見かけることがあったら、ここでのココロ温まる「酷評」でも思い出してください。そう言えば、性交シーンのクライマックスで「スローモーション」など駆使されていたのですが、そのヘンはやはり、彼が以前好きだと言っていたサム・ペキンパー監督の影響なのでしょうか。

 この作品のエンドクレジットを観ていて気が付いたのですが、「音楽」を担当していた人も、あるいは私がよく知っている人なのかも知れません。杉山太郎監督とも学生時代に仲の良かった人物ですから、大いにあり得る話です。


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