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外国映画の中の日本人
2000年3月11日(雑文)

 我々は「ニンジャ」である!



 欧米、特にアメリカ映画の中で描かれる日本人の姿が(日本人の目に)極めて奇怪な存在であるのは、今さら指摘するまでもないことです。それは、スチュワート・ヘイスラー監督の『東京ジョー』やルイス・ギルバート監督の『007は二度死ぬ』といった遠い過去の話ではなく、20世紀も残り僅かという現在に於いてもまた同様、例えば、1997年に制作された「ER」というアメリカのテレビシリーズの第3クールの中のある回に登場する日本人医師の奇怪なサマは、我々が「過去」として嗤い過ごしたはずのそれらと何らの差違をも発見できないものでした。一応は日本から招聘された「胸部外科の名医」という設定、しかし手術に際しては何故か「龍」と刺繍の施された黒い頭巾を被り、そのバックでは琴が奏でられている(単なるSEなのか、あるいは手術室で実際に流れされているという設定なのかは不明)という、制作された時代を考えればやはり驚かずにはいられないものです。ただ、40年前のそれと違うところがあるとすれば、これは唯一正しい日本人像を描いていた場面でもあるのですが、術後に、その成功を祝して酩酊のテイでカラオケに興じるという、喜ぶべきか悲しむべきか、ウソ偽りのない日本人の姿、現代日本の風俗がそこには描かれていたように思われます。日本人が当たり前の娯楽と考えているカラオケ、やはりアメリカ人には余程奇妙に映っているに違いありません。リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』やロバート・アルトマン監督の『プレイヤー』の中でもカラオケのシーンがありましたが、米国人から見た現代日本の特異な文化の一つが「カラオケ」であるのは間違いのないところなのでしょう。

 その「ER」の原案は『ライジング・サン』の著者、反日主義者とも評されているマイケル・クライトン、あの「ニンジャ」のようなマヌケな日本人医師が彼の悪意によるものならまだ「安心」もできるのですが、しかし、もしそうではないのならば少し問題があるというか、彼が日本人に対する認識がかなり不足した状況で一連の対日批判を展開していると考えざるを得ません。マイケル・クライトンは単に原案を提供しているだけ、そのような細部に於いては現場の演出家なり監督が決定しているのでしょうから、単なる杞憂に過ぎないのだとは思いますが。それはともかくとしても、アメリカのテレビ業界の最前線で活躍する連中に於いても、いまだに「ニンジャ」紛いの日本人を捏造する、あるいはそうせざるを得ないのは、彼らの日本人観に決定的な誤りがあるというよりはむしろ(視聴者向けに)日本人を日本人として特化するには方法が他にはないということなのかも知れません。まあ、クロサワ映画に登場する「サムライ」ではなく、それがショー・コスギで人気になった「ニンジャ」であるというところに、幾らかの「現在」を発見し得るのと言えるの知れません。何れにせよ、「エコノミック・アニマル」か「ニンジャ」という、世界(欧米文化圏)の中に於ける日本人のアイデンティティーなど所詮その程度、名前は忘れましたが、その医師に与えられたのは歴とした日本人の姓、トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』(ブレイク・エドワーズ監督によって映画化もされています)に登場する出歯でチビの日本人の名前が「ユニオシ」という、とても漢字を当てられないような意味不明のモノだった事に比べれば、格段の進歩と言えます。

 結局のところ、欧米に於いて、主にアジア系の人物をスクリーンなりブラウン管に登場させる場合、それを他でもない日本人として、特にエンターテイメントの場面に於いて特化するには、やはり極端な経済動物として戯画化するか、もしくは彼らが知識として所有していると思われる伝統的な日本人のスタイルを提示するより他には、二十世紀も残り僅かという今日に於いてさえも、方法がないのではと改めて思い知らされます。勿論、舞台の設定なり、物語の中で日本人と直ぐに分かるような場合は別ですが、そうでもない場合は、(観客、あるいは視聴者に対して)直感的にそれを(中国人ではなく)日本人と分からせる必要があるわけで、そうなると中国人に人民服を着せ、銅鑼を鳴らすとの同様の理屈から、あのような、日本人の目には奇怪なサマで登場させなくてはならなかったのではとも思われます。米国人が必要として日本人を登場させるのは、些か捻くれた見解かも知れませんが、尊敬すべき対象というよりは幾らか茶化した、コミカルな存在としての場合の方がおそらくは多いと思われ、そのような事も人物の奇怪さを増幅させている要因であると考えられます。酷い話と言えばそのような気もしますが、しかし、日本への渡航経験もない、日本人の知人がいるでもない圧倒的多数の一般的米国人に於いては、その程度認識でも致し方のないところ、その一般向けのテレビ番組に於いてあのような手法が採られるのはある意味では至極真当な事とも言えるのでしょう。

 アメリカの映画に日本人が登場する場合、それはある種の必要に応じた結果であり、その「必要」とは大抵の場合エンターテイメントとしての要求、日本人が日本人として(スクリーン上の)存在意義を獲得するのは、例えば『ブラック・レイン』に於ける松田優作演じる犯人の得意とした「怪しげな拳法」に於いてしかないという事です。おそらくは現場にいる誰しも(特に日本人出演者)がそれに違和感を覚えたに違いないのですが、しかし奇怪と分かっていながらもそれを犯人の個性として許容せざるを得なかったのは、そうでもしなければ(アメリカ人の)観客の視点としてのエンターテイメント性、その犯人が「日本人」であるという、あるいは物語の舞台が日本であるという必然性が何処にも存在しなくなってしまうからに他なりません。逆に言えば、何故物語の舞台が日本で、犯人が日本人であったのか、それは件の「怪しげな拳法」に代表されるようなエンターテイメント性を作品そのものに付加するという意図があったからと理解すべきなのです。日本人にしてみれば、些か国辱的とも感じる日本人像が、しかしアメリカ大衆にとっては最も分かり易い、記号化された日本人像であるのは既述の通りです。つまり、生活様式等、徹底的にアメリカナイズされた平均的な現代日本人(つまり日本人が認識しているであろう正統な日本人像)など、実は、アメリカの大衆にとって何らの興味をも喚起し得ない存在、エンターテイナーとしての資質はゼロにも等しいと言えるわけです。

 しかし、逆の立場にたてば、我々日本人とてまた同様、例えばフランス人に対するそれなど典型的、いまだにアコーディオン演奏の「ラ・ヴィ・アン・ローズ」を背景にエッフェル塔か凱旋門では、彼らが日本人とは違って自国の「文化」に常に誇りを持っているというならば話は別ですが、やはり「国辱的」と感じてしまうに違いありません。しかしそれも致し方のない事、一般的な日本人がフランスを連想すればそのヘンのところにしか至らないのが現実、例えばフランスに於いて現在どのような曲がヒットチャートを賑わせているのか、というようなフランスの風俗や若者文化の現状など、一体どれほどの日本人が認識していると言うのでしょう? 同様の理由から、厚底サンダルに茶パツという、日本の若者の典型的な風俗を米国人の殆ど誰もが認識していないと想像するのも然して難しいことでもなくて、彼らにとっての日本人のイメージが「ニンジャ」にむしろ近くても、やはり驚くべき程の事でもないのかも知れません。
 そのような意味に於いて、日本とフランスというのは似ているところがあって、それは実に分かり易い話、英語を母国語としていない事にその因があると言えます。と、言うよりは、日本人にとって「現代外国文化」の殆どすべてと勝手に錯覚している米英、特にアメリカの文化、風俗というヤツが、映画であれ音楽であれ、当然のように「世界」をその市場としている「幅の広さ」という意味に於いて、世界的にむしろ「異質」な存在なのです。世界を市場としなければ日本にもやはりその文化は流入してこないわけで、世界を市場とし得る条件が、例えば音楽の場合ならば、歌詞が英語であるという事なのですから、フランス語で唄われるフランス現代ポップスなど殆ど日本には輸入されませんし、日本の歌謡ロックがアメリカに輸出される事もまたあり得ないのです。そして、そのような表層文化の情報発信が欠落するとどうなるか、いつまで経っても日本人は「ニンジャ」に、フランス人は「シャンソン」に甘んじなくてはならなくなるのです。勿論、フランスを日本と同類に扱っては失礼な話、表層文化の発信という意味に於いては明らかにフランスが数段上位にあると思われるのですが、しかし、これはあくまでもアメリカ人の日本人観と日本人のフランス、あるいはドイツ人観との比較のお話。

 そう考えてみると、我々日本人がいつまでも「ニンジャ」に甘んじなくてはならないという現実も、然程悲観すべきことでもないように思われます。それは平均的な日本人というモノが果たしてどの程度諸外国の現代文化、風俗を正確に認識しているのか、という事を思い巡らせれば事足りるわけで、私にしても、精々アメリカの主要都市の現代風俗というヤツを、輸入された媒体を介して漸く理解している、あるいはその「つもり」でいるだけで、アメリカでも、例えばイリノイ州の平均的な若者がどのような風体で街を闊歩しているのか、そんな事は想像だにできません。そう考えれば、経済や政治のレベルではイザ知らず、文化交流という意味に於いては殆どアメリカ側からの一方通行でしかない現状に於いて、アメリカ人が日本人の事について殆ど何も知らなくても、何ら不思議でもありませんし、また、悲観すべき問題でもない、何故なら、世界中でその風俗がある程度正確に認識されているのはアメリカの一部文化圏という「異質」に過ぎないからです。


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