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クッキー・フォーチュン
監督:ロバート・アルトマン
2000年3月12日(シネセゾン渋谷)

 それを「隠す」という儀式



 学生の頃、ホンの少しですが、ブルーズの真似事をやっていたこともあって、アメリカ南部というのは個人的に非常に興味のある場所なのですが、しかし、そこを実際に訪れてみたいと思ったことは一度もありません。あくまでも個人的な印象の問題に過ぎないのですが、何となく「イヤな場所」というイメイジ、その理由の一つが、私自身が「色」を有する人種であることに起因するのは言うまでもないことです。こういうのは微妙な問題ですから、余りいい加減なことも言えないのですが、聞くところによると、今どきの人種差別、露骨な、目に見えて分かるような(「言葉」や「態度」による)ものは、むしろ北部方面に多いそうで、南部では然程目立たないのだとか。しかし、それはあくまでも「目立たない」というだけの話で、「根の深さ」という意味ではやはり南部、既に完全な「棲み分け」ができていて互いの交流も殆どないに等しく、それ故に何ら問題が表面化しないだけのようです。「空気の如き差別意識」と言ってはあるいは言い過ぎなのかも知れませんが、私がそこを「イヤな場所」と感じるのは、私が「差別される側」にあるからというわけでは決してなく、そこに蔓延する白々しい「空気」が、何となく肌に合わないような気がするからです。繰り返しになりますが、これはあくまでも私がそこを「イヤな場所」と感じる「理由」であるに過ぎず、その根拠としている「情報」と「現実」が同義であるとは限りません。つまり、私のそれは「誤った情報」を根拠とした恐るべき「偏見」に過ぎないのかも知れないということです。しかしこの場合、そんなことが然して重要でもないのは言うまでもないこと、それが単なる「偏見」に過ぎないにせよ、私がそこを「イヤな場所」と感じているのは、紛れもない「事実」なのですから。

 この作品では「復活祭」前後の数日間の出来事が描かれています。「復活祭」というのは日本人には馴染みの薄いキリスト教の祭事なのですが、着色した卵を「隠す」という習慣(イースター・エッグ)ぐらいは、あるいは知っている人も多いのかも知れません。この作品でも勿論、そんな場面が出てきます。そして、それが恰も何かの「象徴」であるかのように、その「隠す」という「儀式」が、この作品に於いては極めて重要な意味を持ちます。そもそもの発端であるクッキーの自殺を「隠す」という動作や、作品の最後に明かされる二つの「隠されていた」過去は言わずもがな、チャールズ・S・ダットン演じるウィルスが酒場から「ターキーの小瓶」をこっそり持ち帰り、翌日にはやはりこっそりと返すというエピソードにしても、この作品に鏤められた「隠す」という「儀式」の一つと言えます。それが「儀式」に過ぎないのは、「ターキーの小瓶」のエピソードがそうであるように、現実には「知らないフリ」をする人間が、あたかも「隠されている」かのように振る舞い、事実を捏造しているに過ぎないからです。そして、多分、この作品の舞台となったホリー・スプリングスという町に実際に存在しているのでしょう、「1865年、ここでは何も起こらなかった」と書かれたプレートを何気なくカメラが捉えるのですが、極め付けはそれです。彼らは南北戦争での敗北すら「知らないフリ」で遣り過ごそうとしているのです。それこそが南部的風土である、と断言するのは、やはり些か「偏見」が過ぎるのかも知れませんが、しかし、少なくともこの作品に描かれている風土はそれに相違なく、この作品を「ブラックユーモアに溢れている」と評したいのならば、決してその点を見過ごすべきではないでしょう。そして当然ながら、その「儀式」の如き白々しさはアメリカ南部の抱える最大の問題に於いてもまた、その病癖が私に「イヤな場所」という印象を与えているのは既述の通りです。

 この作品にも人種問題は描かれています。監督によって捏造された「雰囲気」がそれを目立たなくしているため、あるいは気が付かない人もいるのかも知れませんが、「無実の黒人が牢屋に入る」というのなど古典的にして極めて映画的なものと言えるでしょう。また、ウィルスがその素性を隠していた(むしろクッキーが隠していたと理解すべきなのかも知れません)というのもやはり同様、そこには南部的な「問題解決法」までもが示唆されています。
 さて、ここで問題にすべきは、「それに気が付かない人すらいるかも知れない」という程度にしか描かれていない「映画的現実」を如何に理解するかということです。それをつまり「そこに人種問題は存在していない」、あるいは「そもそも、もはや南部の人種問題は既に解決している」と理解する人もいるのかも知れません。実際、白人の警官がその黒人を弁護しますし、彼以外殆ど白人である主要人物の誰しもが、彼を「異質」な存在として扱ってはいませんから、あるいは「牢屋に入ったのが偶々黒人だったに過ぎない」という理解があっても何ら不思議はありません。しかし、そんな理解など簡単に否定し得るのは、物語の表層に漂うそんな「空気」をこそ、何よりもの主体として描いたのがこの作品である故、つまりは「ブラックユーモア」なのです。

 確固たる主役が存在しないという意味で、この作品はアルトマン監督が得意とする「群像劇」の一種であることには違いがないのですが、例えば「登場人物48人」とも謳われた『ウエディング』などと比べると、かなり小規模な部類のものと言えます。やはりアルトマン監督の群像劇である『ナッシュビル』を下敷きにして制作されたと言われているのが、先日感想を記した『マグノリア』なのですが、今回アルトマン監督の作品を観て改めて気が付いたことがあるとすれば、「群像劇として欠陥がある」とした『マグノリア』に欠落していたのが、その「空気」であるということです。群像劇の各々の主体、あるいは物語が共有するのは「時間」ばかりではなく「空間」もまた、仮に並行する物語に何らの交錯がなくても、そこに共有された「空気」を観客が感じ取ることができれば、それで十分に群像劇は成立するもの、それがなかった故に(ラストの「事件」以外に)、群像劇としての出来が今一つと感じたのかも知れません。既にそこを舞台に何本もの作品を撮っていることから分かるように、アルトマン監督にとって南部は特別な場所、つまり私と殆ど年齢の変わらないアンダーソン監督との違いはそのヘンのところ、「場所」に対する思い入れの違いのような気もします。

 冒頭から「事件」が起こるまでの映像は作品全体の中でも異質、フィルムノアールを想起させるようなタッチでした。監督のインタビューを確認するまでもなく、それが意図的なものであることは理解できたのですが、しかし、監督の「観客にどんな作品か分からせないようにするため」という解説はさて、内容の詳細はともかくとして、この作品が「コミカル」であるという程度の予備知識もなしに劇場に来る人など果たしているものなのでしょうか。確かに、そのつもりできた人に「オヤ?」と思わせることは可能、私自身も実際そうでした。何れにせよ、こういった「遊び」は個人的に好きですし、これもまた大監督の「余裕」というやつなのでしょう。

 既に公開から日数が経っていることもあって、単観上映されている劇場は大した混雑もありませんでした。それでも、上映が始まる直前には全体の8割方の席が埋まっていたように思われます。特筆すべきは、「女性二人組」が目立って多かったということ。アルトマン監督の近年の作品が女性に好まれるというのは何となく理解できるのですが、それにしても、かなり極端な男女比率でした。私の知る限り、同様の現象はウディ・アレン監督の作品などにも、やはり女性の方が格段に趣味が良いということなのかも知れません。さて、世の男性は一体何を観ているのでしょう?


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