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ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ
監督:アナンド・タッカー
2000年3月19日(新宿武蔵野館)

 現実を「逸脱」する意志



 こんな場面がありました。家族と疎遠になった上に、現在の自身の不幸を家族のせいにしようとするジャクリーヌに対して、母親がそれを否定して「昔は幸福だった」と、そう確信する母親がその「証拠」と言い張るのが、彼女らが子供の頃に家族で撮った写真なのですが、長女のヒラリーには「写真ではみんな笑っているものよ」と一蹴されてしまいます。この場合、やはりそこで笑顔を見せているヒラリー自身が、その場面に於いて決して幸福ではなかったという「事実」が映画的に説明されていますから、ヒラリーの言葉は何よりもその「事実」に端を発していると言えます。母親がそれを無邪気にも「幸福な過去の証拠」と主張するのは、その場面に於いて彼女自身が幸福であったからに他ならず、つまり「写真」とはそういうもの、記録し得るのは、その撮影者に於ける「意味」を例外として、決して「意味」など内包しない極めて表層的な「事実」であり、その「意味」はあくまでも各々の主観によって「与えられる」ものに過ぎません。
 さて、ここで問題にすべきは、その写真にジャクリーヌが与える「意味」なのですが、実際、映画の中で母親の目論見自体が頓挫してしまうこともあるのですが、観客が映画的文脈に忠実である限りに於いては、決してそれを知ることはできません。天才としてのその後の運命を決定付けられた彼女の少女時代が幸福だったのか不幸だったのか、そんなことは誰にも分かり得ないのです。

 この作品は、ヒラリーとその弟による原作、天才チェリストとして知られたジャクリーヌ・デュ・プレを家族という、最も近しいのであろう存在の視点から考証したテクストをもとに制作されています。私はその原作を読んでいませんから、余りいい加減なことも言えないのですが、家族とは言え、あくまでも「他者」に過ぎない存在の視点をもとにしているわけですから、仮にそこに「天才の内面」が描かれているにせよ、それはおそらく推測の域を脱し得ないものに違いありません。もし仮に、この映画が「リアリスム」の追求を主眼としたものならば、ヒラリーの推測をそこに再現するか、あるいは観客各々の主観によって「天才の内面」が捏造される以外、やはり「分かり得ない」ものは「分かり得ない」まま、つまり「写真」がそうであるように、あくまでも表層的な「事実」をのみ、そこに呈示しなくてはなりません。既述の通り、映画的文脈に忠実である限りは「分かり得ない」ものがそこに残ります。しかし、だからと言って、この映画が決してリアリスムの追求など目指していないことは、これを実際に観た人には分かるはず、そこには極めて映画的な「逸脱」が存在しているのです。

 ただ過ぎて往くだけの「現実」を自由に再構築できるのが映画の特権、時間と空間を自由に操ることによって、より「現実らしさ」を獲得することすらできます。この作品の一部分で有効に活用されている「パラレル」もまたその特権の一つと言えます。確かに、それはある意味非常に安易で、特にこのような性質の作品に於いては、明らかに「虚構」の視線を捏造するという意味で、「アンフェア」と解されてしまうのかも知れませんが、しかし、如何なる手法に依ろうともそれが「現実らしい物語=虚構」に過ぎないのは言うまでもないこと、映画に「不可知の領域」があるにせよ、それはあくまでも「物語外」のこと、それが「物語」である以上、あらゆる視線は許容されるのです。そしてその「物語」は、「天才が凡人を羨む」という些かメロドラマじみた結論に収束するわけで、この作品を観て何かを了解した気分になっている人が、単にその「メロドラマ」を了解しているに過ぎないことなど今さら言うまでもありません。しかしそれはまた、監督自身が「了解しようとした」ことを正しく了解したとも言えるのでしょう。
 そもそも「天才の内面」を了解しスクリーンに映そうなど無理な話で、例えばミロス・フォアマン監督の『アマデウス』に於いては、捏造された凡人(サリエリ)に「了解させる」ことによって、漸くそれを実現しているのですが、この場合、サリエリをおよそ虚構化するという「逸脱」がある以前の問題として、作品自体が「虚構」を大前提としています。『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』が些か厄介なのは、より「現実らしい」ものを前提としていること、天才の最も身近で「了解しようとした」人間の考証に依っているということです。監督もまた独自に「了解しようとした」ことは、「パラレル」という映画的「逸脱」を実現していることからも明らか、その二重の「フィルター」が既に「事実」を歪めていることなど批判しても意味がありません。「映画」とはそういうものなのです。それでもしかし、この作品のすべてが「パラレル」によって描かれているのではないところに、監督の倫理、「不可侵」の原則が垣間見えるような気がします。安易に了解してはいけないもの、あるいは単に「物語」の構成上の問題に過ぎなかったのかも知れませんが、その「パラレル」を挟んだ二つの「精神状態」に対する諦念が、この作品を安易な「メロドラマ」から遠ざけているとも言えるのかも知れません。「分かり得ない」ものはやはり「分かり得ない」のです。

 個人的に好きな場面の一つに、チェロとピアノとバイオリンで何かの曲(多分、非常に有名なクラシックの曲なのだと思うのですが、私は知りません)をレコーディングしている最中、唐突にキンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」に演奏が転じてしまうというのがあります。こういうのは、個人的な経験も含めて、ロックバンドのセッションなどでは往々にしてあることなのですが、クラシック音楽のレコーディングで、しかもキンクスを演奏するという意外性は、非常に愉しめるものでした。尤も、監督のインタビュー記事を参照すると、このエピソード自体は明らかなフィクションのようで、何らかそれを連想させる別のエピソードがあったに過ぎないとか。そのエピソードがどのようなものなのかは分からないのですが、何となく興味を惹かれるところです。尚、キンクスのこの曲のタイトルは、この作品の別の場面でも登場するのですが、その際の字幕には「君に首ったけ」という、今どき誰も了解し得ない発売当時の邦題が、それはビートルズの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」を「そのときハートは盗まれた」とするようなもの、現実に後のレコーディングの場面とも関わりが生じるわけですから、もう少し考えて翻訳した方が良かったような気がします。字幕での翻訳には確か「字数制限」があるはずですから、あるいはその制限を守るための苦肉の策だったのかも知れませんが。
 それも含めて、この作品には「時代」を表徴する記号がいくつか出てきます。フランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』や「ビートルズ」がそれ、トリュフォーはともかくとしても、彼女らが実際キンクスを演奏するように、そこにポピュラー音楽の存在を示す、そうする必要があったのは、あるいはクラシック音楽というものが、ある一定の「時代」を表徴し得ない類のものだからなのかも知れません。そこに殊更に「時代」が強調されるのは、これが現実にその「時代」を生きた人間を扱った作品であるからばかりではなく、やはり天才を「了解しよう」とした監督の「意志」がそこにあったからに違いありません。

 少女時代のジャクリーヌが、コントラバスのように、立ってチェロを弾くという場面がやはり印象に残っています。勿論、これは身長との関係で至極当たり前な動作に過ぎないのですが、そんなふうにチェロを弾く姿を今までみたことがなかったせいか、意味もなく感心してしまいました。別に妙な「趣味」の話ではありません。

 この作品とは直接関係のない話ですが、映画の中にも登場するジャクリーヌが使用していた「ダビドフ・ストラディバリウス」というチェロの名器は、現在ではヨーヨー・マの所有するところとなっているとか。

 歌舞伎町で『スリーピー・ホロウ』を観るつもりで、新宿の東口付近で時間潰しをしていたのですが、その際にジーンズを購入、「裾直し」のために一旦預けたジーンズを映画の後取りに戻る必要が生じてしまい、それも面倒だと考えて、急遽、その店と同じビル内にある劇場で別の映画を観ることに、それが『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』だったというわけです。従って予備知識も殆どなし、実在の人物に関する作品だということすら知りませんでした。途中、やたらと「時代」が強調される段に至って漸くこの作品の性質に気が付いたというテイタラクでした。


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