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スリーピー・ホロウ
監督:ティム・バートン
2000年3月20日(新宿プラザ)

 映画オタクかシネフィルか?



 私は案外怖がりな方で、子供の頃など「暗闇」に対する恐怖心は人一倍、大人になった今でも、むしろ明るければ明るいほどよく眠れるという不具を抱えています。極端な恐怖心は「暗闇」に対してばかりではなく、「高所」や「閉所」に対してもまた同様、歩道橋を渡るのさえ、真ん中をゆっくりと歩かなくてはならないという情けなさです。それら恐怖心の正体が「死」であるのは言うまでもないところ、それは子供の頃から自覚しています。少しでも体調が悪いと「癌ではなかろうか」と悶々と思い悩む、実はそんな小学生でした。尤も、病気に対する恐怖心は歳を重ねるごとに徐々に薄らいできたようで、悪いことに今ではむしろ無感覚、1日に煙草を5箱消費しても、気になるのは財布の中身くらいのものです。それは多分、「死」に対する恐怖心よりも、それに付随する「煩わしさ」が勝っているということ、「暗闇」や「高所」に比べれば「病気」など極めて緩慢な動作に過ぎませんから。それは、あるいは想像力の問題とも言えるのかも知れません。高層ビルの屋上から地上を眺めれば、誰しもがそこに「確実な死」を発見し得るもの、何を想像するまでもないと思うのですが、しかし、喫煙を「死」と結び付けるのには多少の想像力が必要、つまり、私にはその程度の想像力すらないということなのです。

 想像力ということで言えば、「虚構」の類に対する恐怖心もまた同様、子供の頃に随分と怖がった記憶のある映画でも、大人になってから観直してみると然程でもなかったりするというのなど、やはり想像力の問題に違いありません。勿論、それが「虚構」であると正確に認識できるようになることが、大抵の大人を恐怖心から遠ざけることになるのは言うまでもない話、しかし、それが想像力をもまた遠ざけてしまうのは、「虚構」というものがそもそも「無用な想像力」の産物に他ならない故、子供が「虚構」に同化できるのもその「無用な想像力」を有しているからです。物事の道理や因果、そんなものを数多く発見して往く過程に於いては失うものもまた、ドラキュラ伯爵に対する恐怖心と、ささやかな社会生活を維持して往くための術、どちらが大事かなど、一概に言えたものでもないのかも知れません。

 私が子供の頃と言えば、ウイリアム・フリードーキン監督の『エクソシスト』が火付け役となった「オカルト映画」が大流行、何れもテレビでしたが、小学生の頃に観た『オーメン』や『サスペリア』には随分と怖い思いをさせられました。そして、それらよりさらに怖かったのがクリストファー・リーが演じるドラキュラ伯爵、毎年夏になるとテレビ放映されていたのですが、同じものを何度も観て、やはり何度も怖がっていたような記憶があります。「吸血鬼ドラキュラ」に代表される「ゴシック・ホラー」に比べると、その後の「オカルトもの」など、同様に「悪魔の化身」を扱っているとはいっても、やはり随分と近代的(非近代である故に「ゴシック」なのですが)というか、ゴシック・ホラーの舞台が「非日常」なら、オカルトのそれは「日常」、最近の「ホラー紛い」などに至っては舞台はおろか、恐怖の対象までもが極めて日常的なもの(例えば、近代医学によってあっさりと説明がつきそうな)となっています。大人とか子供という問題ではなく、社会そのものから想像力が欠落してしまったのでしょうか、「明日、それが自分の身に起きても何ら不思議ではない」ことがむしろ恐怖の対象に、ルーマニアの城で500年の眠りについていた「悪魔の化身」など、今どき子供ですら冗談としか思わないのかも知れません。

 闇夜を疾走する馬車での格闘シーンに、思い掛けず遠い「恐怖」の記憶を喚起させられたのが、ティム・バートン監督の『スリーピー・ホロウ』、何らか検証してみたわけでもありませんから余りいい加減なことも書けないのですが、あの場面はおそらく、私が小学生の頃に観た(クリストファー・リー主演の)「ドラキュラ」からの引用に違いありません(実際、クリストファー・リーも出演していますし)。そればかりではなく、暖色系を落としたスクリーンの色調からして、この作品全体が嘗ての「ゴシック・ホラー」を模倣した、言うなれば「オマージュを捧げた」作品と理解することができます。バートン監督のゴシック・ホラー好きは、例えば『エド・ウッド』など観れば容易に知れること、あの作品に於ける、やはりドラキュラ俳優のベラ・ルゴシの扱いは、作品上でのエド・ウッドとの関係以上のもの、彼に対するオマージュでもあったに違いありません。

 余談ですが、作家主義的な見地から「映画は映画の模倣に過ぎない」という諦念に至った「作家」たるものの「オマージュの定義」らしき、まあ、実にクダラナイものがあるようで、その一つが「俳優に対するオマージュ」というやつ、近年その「正統」と一部に於いて評価されているのが、タランティーノ監督の『ジャッキー・ブラウン』だったりするのですが、その意味ではこの作品もまた「作家」による「正統」が実現されたものと言えるのかも知れません。繰り返しますが、これはあくまでも「余談」であり、別に私の意見というわけでもありません。この見識自体がそうだとは限らないのですが、何らかの「定義」に従っていれば、即ち「作家」であるという発想ほど本末転倒なものもないわけで、そのヘンのところで、例えば、単なる「映画オタク」と「作家」が混同されてしまうような、「定義」の歪みが生じたりもしているような気がします。勿論、バートン監督やタランティーノ監督を単なる「映画オタク」と言いたいわけではありません。

 さらに余談。バートン監督やタランティーノ監督に対して使用される「映画オタク」という表現と、例えば、トリュフォー監督に代表されるヌーベルバーグの連中に対して使用される「シネフィル」という表現の違いは一体何なのでしょう。単に「シネフィル」の現代日本語的翻訳が「映画オタク」であるに過ぎないような気もするのですが、しかし、トリュフォーを「映画オタク」と表現する人など皆無ですし、やはり何らかの差違が存在しているようにも思われます。そういうのは、まあ、その語彙を使用する人の「同胞意識」の発露であったりもするわけですから、そのテの評論家が相手を勝手に同類と思い込んでの「愛情表現」の一種なのかも知れません。尤も、バートン監督に関して言えば、この作品でのクリスティーナ・リッチの使い方や、『シザー・ハンズ』でウィノナ・ライダーを金髪の「お姫様」にしてしまったアタリの「趣味」が、別の意味で「オタク」的な感じがしないでもありませんが。何れにせよ、個人的には、監督に対する「映画オタク」という表現はあまり好きではないという話。そういう表現を使いたがる連中に見え隠れする奇妙な「馴れ馴れしさ」こそが、実に「オタク」的なのです。

 閑話休題。しかし、この作品が、単なるゴシック・ホラーの模倣でないのは言うまでもないこと。奇妙な道具というか「玩具」をイカボッドに持たせるアタリが如何にもバートン的というか、それを演じるジョニー・デップの存在自体が、既に独自の世界をそこに構築していると言えます。物語設定上の奇妙な科学志向ばかりでなく、彼の表情や身振りが既に、物語に於けるある種の「異化」の試み、つまり『シザー・ハンズ』に於けるそれと殆ど同様なのです。しかし、名作『シザー・ハンズ』との違いは、この作品のそれが、そこに「滑稽さ」をもたらすに止まっているということ、その意味では何となく中途半端な印象も受けたのですが、作品全体の性質を考えれば、それはそれでまた良いのかも知れません。個人的には、遠い記憶を喚起させるゴシック・ホラーの「雰囲気」と、馬に跨って疾走する首なし騎士の颯爽としたサマ、首を切る時の「シャキーン」という大仰な金属音が何よりもの快楽、そんなものを目撃できただけでも、十二分に満足できるフィルム体験でした。

 上映最終週、最後の週末(来週末からは『グリーン・マイル』に)の割には、広い劇場の殆どが埋まっていました。聞くところによると、この作品はかなり興行成績が優秀だったようで、それも頷ける話です。そして、観客の殆どが若いカップル、ジョニー・デップ人気というのも当然あるのでしょうが、おそらくはそればかりでもないはず、私のような「懐古趣味」に依らなくとも、このテの作品が現在でも十分に成立し得るというのは、何となく嬉しい話です。勿論、ハリウッドで制作された作品ですから、そこに「現在」があるのは言うまでもないこと、そのヘンとの折り合いも上手につけて、制作者に懐具合を気にさせないところもまた、バートン監督の才能の一つなのでしょう。


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