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明日に向かって撃て!(1969年 米)
監督:ジョージ・ロイ・ヒル
2000年3月24日(私の映画史 #4/100)

 ニュー・シネマの実体とは?



 確か、梅本洋一だったと記憶しているのですが、「観ていない映画はすべて『新しい映画』である」と何かに書いていました。これには私も同感、例えば、エイゼンシュタイン監督の『戦艦ポチョムキン』のような作品にしても、それを観ていない、これから観るという人にとっては「新しい映画」であり、また、そういう心掛けで作品に接した人に対して(仮にそうでなくても)、常にそれに応え得る「新しさ」を有しているのが「映画」であるとも言えます。一般に「新しい映画」として認識されるのは、封切り館でリアルタイムに上映されている作品で、他方、「旧い映画」とされるのは、単純に公開から既に時間が経過したもの、その幅は人それぞれで、1年という人もいれば30年という人もいるに違いありません。そして、それは単純に時間の問題だけではなく、そういった作品に印象としての「旧臭さ」を付与してしまう要因も幾つかあって、至極分かり易いのが映像の問題、「黒白」映像の作品など、誰しもが直感的に「旧臭い」と感じることでしょう。そう言った要因は大抵が、我々が日常生活の場面に於いても共有している、それ故に印象も強い「技術」の問題、CG合成が当たり前の昨今、リア・プロジェクションで合成された画面を旧臭く、またインチキ臭くも感じてしまうのは当然のことだと思います。しかし、映画に於ける技術というのは、そう言った、およそ科学技術と歩調を合わせた類のものばかりではなく、仮にそれを「表層的な技術」とすれば、もっと深層にある、言うなれば映画の「構造」に関わるような技術も数多く(「表層的な技術」とはおよそ無縁な「文学」など想起すれば分かり易いと思います)、むしろそれらの方が映画の本質に於いては余程重要なわけで、さらに、後者の技術に関して言えば、前者のそれに比べて然程進歩しているとも言えず、あるいは、むしろ「退歩」をすら発見し得るのが現状と言えるのかも知れません。従って、映画の表層が喚起する「印象」に過ぎないものを排除した上で、それら作品と向き合えば、「新しさ」など容易に発見し得るのではないでしょうか。勿論、「旧い作品」のすべてに「新しさ」が備わっているわけでもなく、本当にただ「旧臭い」だけの作品もあるでしょうし、また、現在ロードショー公開されている作品に、映画的な「新しさ」が備わっているものがあるかも知れないことは、言うまでもないことです。

 然して映画的でもない「新しさ」の要因は他にも様々、例えば「情報としての新しさ」というのもそれ、流行を気取ったり、酒場での話題を得るために映画を観る人達にとっては何よりもその「新しさ」こそが重要となるに違いありません。もし仮に、私のこのテクストがある種の「啓蒙活動」であったとしても、しかし、私はそのような連中など端から相手にしていませんから、この際、そんな連中のことは捨て置くことにしましょう。

 さて、ここで問題にすべき、つまり本来論ずべき『明日に向かって撃て!』に纏る「新しさ」の要因とは、幸か不幸か、それを含めた一連の作品群が既に獲得してしまった一般的な評価にも関わるものと言えます。何故なら、その一連の作品群には、他でもない「ニュー・シネマ」という呼称が与えられているからです。勿論、それらが「新しい」とされたのは公開当時のこと、しかし、時を経た現在に於いてもその「ムーブメント」が映画史的事実として記録されていることからも分かるように、そこに発見された「新しさ」が他に類を見ないものだったと理解することができます。

 一連の作品がおよそ「アンチ・ヒーロー」という物語的表徴を以て「新しさ」の称号を獲得したのは今さら言うまでもないことです。では、何故そこに「アンチ・ヒーロー」が登場し、万雷の拍手を以て迎え入れられたのでしょう。何処からともなく自然発生するわけでもない「映画」は、好むと好まざるとに関わらずその「背景」を有するもの、大抵の場合それが広義の意味に於ける「社会」であるのは、映画が「社会的存在」である何よりの証左と言えるのかも知れません。そして、映画が「社会的存在」である以上、その評価を左右する要素の一つとして「同時代性」が挙げられるのはむしろ必然とも言えるのでしょう。そこに「アンチ・ヒーロー」の出現を許したのは、「同時代的」要求の結果に他ならず、つまり「ニュー・シネマ」の場合に限らず、物語的表徴としての「同時代性」こそが、映画に「新しさ」をもたらす要因の一つであると言えるわけです。
 では、映画に於ける「同時代性」はそれほど重要なものなのでしょうか。私に関して言えば、実は然程重要なものとも思っていません。特に物語的な意味に於ける「同時代性」など、私はそもそも「物語」自体を余り重要視していませんから(何らか「評価」を与えるという場面に限って言えば)、当然と言えば当然のことです。勿論、私のその「同時代性」に対する態度が、決して「正しい」というわけでもないでしょうから、ここではあくまでも「個人的な趣味の話」としておきますが、しかし、間違いなく言えることがあるとすれば、映画に於ける「同時代性」は、観衆を些か寛容にし過ぎる嫌いがあるという、如何な愚作であっても、そこに何らか同時代的要素が鏤められていれば、それなりの評価を獲得してしまうということです。「同時代性」というのは、作品の評価を決定する一要素ではあり得ても、しかし決して最重要視すべきものではありません。確かに、それほど悪い作品だとも思いませんが、しかし、単に「アンチ・ヒーロー」のメロドラマに過ぎないものを、「映画史的に重要な作品」などと評すのは、些か「おひとよし」が過ぎる所作のような気もします。逆に言えば、およそ「アンチ・ヒーロー」という同時代的表徴を以てのみそれら一連の作品群が語られることは、それらにとってもまた「不幸」なこと、あるいは、そもそも「作品群」という認識自体が、既に極めつけの「不幸」であると言えるのかも知れません。

 この作品は決して「名作」というほどのものでもないと思うのですが、しかし、あの有名な「自転車の場面」だけは別、個人的には映画史に残るくらいの美しい場面だと思っています。その場面との関わりで、旅立ちに際して自転車を抛り投げる場面もまた、意味と機能を失った自転車はもはや「道具」ですらありません。
 その自転車の場面、フランソワ・トリュフォー監督に対する「オマージュ」とも言われているのですが、「映画の中で自転車をみたらトリュフォーと思え!」が持論の私も、当然ながらそう思っています。やはり「ニュー・シネマ」と呼ばれている作品の一つ、『俺たちに明日はない』の脚本が本来トリュフォーのために書かれたというのは有名な話、結局、実現はしなかったのですが、そのことからも分かるように、「ニュー・シネマ」とトリュフォーは浅からぬ関係にあります。そもそも「アンチ・ヒーロー」というのは、トリュフォーに代表されるフランスの「ヌーベルバーグ」(新しい波)の専売特許だったわけで、「ニュー・シネマ」はそのアメリカ版とでも評すべきもの、映画史的にみれば「新しい」ものですらなかったと言えます。
 話を『明日に向かって撃て!』に戻すと、そこに描かれている男二人女一人の三角関係というのもやはりトリュフォー的、しかし、この作品でその三角関係が何らか機能しているのは、残念ながら件の「自転車の場面」のみ、その場面が一際美しいのも、やはりその不安定な関係が映画的に機能している故のことです。

 繰り返すようですが、別に悪い作品ではありません。「ニュー・シネマ」と呼ばれる一連の作品群の中では、例えば『俺たちに明日はない』などより余程良い作品だと思っています。ただ、個人的に常々思っているのは、一般に「ニュー・シネマ」として一括りにされている作品群の実体は、『イージー・ライダー』という一本の傑作と、その他「普通の映画」の寄せ集め、まあ、そんなところではないでしょうか。ここで『明日に向かって撃て!』を俎上に載せたのは、それが先日偶々テレビ放映されていたというだけの理由、正直に言えば、ただ「ニュー・シネマ」の悪口を書きたかっただけなのです。

 高校生の時、既にその地を離れて10年以上にもなる私の故郷に唯一あった「メトロ劇場」という名画座で、この作品を最初に観ました。確か『スティング』との二本立て、ホンの少し映画に詳しい人ならば、この組み合わせの安直さが分かるはずです。今でこそこんな捻くれたことを書いていますが、当時はその「メロドラマ」にも随分と感動したような記憶があります。あるいは、「フィルム体験」という意味に於いては、そういうことの方が余程大切なのかも知れませんが、しかし、今観ても少しも感動しないのですから、どうにも致し方のない話です。


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