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救命士
監督:マーチン・スコセッシ
2000年3月25日(新宿東急)

 車高がもたらす感覚の差違



 日本海の浜辺に流れ着いた外国人をワゴン車で拾い上げて都内某所に移送するのが私の仕事、かどうかは兎も角としても、仕事で時々ワゴン車を運転することがあります。残念ながら自家用車など持ち合わせていないものですから、運転と言えば、仕事絡みでそのワゴン車が専ら、偶に乗用車をレンタルして遠出することもあるのですが、車高の高い大型車に乗り慣れていることもあって、それに慣れるまでには1時間くらいハンドルを握る必要があります。所謂「車両感覚」の違いというのが大きいのですが、窓から見える景色の微妙な違いもまた運転に影響するもので、普段は見下ろしているガードレールが顔の直ぐ脇にあったりすると、何となく妙な感じがしてしまうわけです。何れにせよ、車高の高い大型車というのは、運転が少し面倒な分、乗り慣れてくるとその視線の高さや外から感じるのであろう「威圧感」がナカナカの快楽、逆に普通車になど乗ると、むしろ卑屈な感じにもなってしまいます。

 20年以上の時を隔てた二つの作品、『救命士』と『タクシードライバー』の差違を端的に表現するならば、その車高がもたらす感覚の差違にも似ていると言えるのかも知れません。実際、夜のニューヨークを眺める主人公の視点はタクシーから救急車に、車高の違いの分だけ視点も高くなっています。また「威圧感」という意味では格段の差が、単に車体の大きさの問題だけでなく、その乗り物が有する「意味」の違いが、周囲の態度を大きく変えています。フランクが運転する救急車は、トラビスのタクシーのように生卵をぶつけられたりしないばかりか、実際にはその必要がなくても、サイレンさえ鳴らせば道路が開き、スピード違反で捕まることもありません。そして、夜のニューヨークを徘徊する乗り物としては何よりも(おそらくはパトカー以上にも)安全、20年の時を経て、『タクシードライバー』の当時はまだ30代前半だったマーチン・スコセッシ監督が獲得した視線は、つまりはそれだったと言えるのかも知れません。

 トラビスにせよフランクにせよ、与えられた職務を全うすべくそこに在る限りに於いては、単に「目撃者」であるに過ぎません。彼らの同僚もまた「目撃者」であり、何かの理由で私が夜の歌舞伎町を徘徊すれば、私もまた「目撃者」の一人となります。夜の都会はそんな「目撃者」に溢れているのです。従って、彼らの視線をして、そこに何らかの「現実」を映すことはあっても、しかし、決して「物語」を生むことはできません。そこに映画的な「物語」が存在するのは、他でもない、トラビスやフランクが単なる「目撃者」であることを止め、そこに些かの「逸脱行為」を展開する故、それはまた彼らがスクリーンの真ん中に「立つ」所以とも言えるのでしょう。
 その映画的「逸脱行為」によって彼らが獲得したのは、しかし所詮は「カタルシス」に過ぎません。何丁もの拳銃を買い、訓練を重ねていた割には、たった3人のゴロツキを始末しただけで大団円を迎えてしまうトラビスにせよ、あるいはトラビス以上にも「反=倫理的」方法によって一人の人間を「始末」してしまうフランクにせよ、結果的に救済したのは他でもない「自己」、何れの場合も、ニューヨークという都会を「目撃」することによって、言うなればニューヨークの「毒気」に当てられて、ノイローゼに陥った人間が映画的「逸脱」を展開し、その「逸脱」が頂点に達したところでカタルシスを得るというカラクリ、つまり、物語の構造だけをみれば、実は『タクシードライバー』と『救命士』には殆ど差違が存在していないということになります。彼らが結局は「目撃者」に回帰するというのも同様、あるいは我々の視線を逃れたところでまたぞろ「逸脱行為」に走る可能性をも示唆して幕を閉じた『タクシードライバー』と、遠ざかっていた「深い眠り」に落ちるという、もはや「逸脱行為」の終焉と日常への回帰をしか示唆しない『救命士』、違いがあるとすれば、とりわけ後者が「自己完結的」であると言ったところでしょうか。何れにせよ、そこにあるのは「目撃者」としての視点の差違、これら二つの作品を分けるのは「物語」や「時代」ではなく、やはり「車高」の違いなのです。

 誰が生き、誰が死ぬべきか。すべてのゴロツキを「掃除」すべきと考えたトラビスのそれは実に単純明快でした。しかし、『救命士』のフランクに至っては、トラビスが始末したはずのゴロツキの命をも助ける代わりに、トラビスの倫理基準では到底その網に掛からない人間を始末、そこには些か難解な「選択基準」が存在していると言えます。強いて言えば、人間の力など到底及ばないところ、つまり神の領域に於いてその選択が、すべては為すがママ、「死ぬべき人は死に生きるべき人は生きる」という諦念に至ることが、フランクに「目撃者=傍観者」への回帰を促すのです。トラビスの(逸脱行為の)頂点がある種の「実現」であったのに対し、フランクのそれは「諦念」、前者のそれが些か子供じみたマサに「逸脱」であったのに対して、後者のそれは現実の社会ですらいまだ実現し得ていない「成熟」とも言えるもの、ホンの50センチも車高が高くなると、そこから眺め得る風景に対する態度がこうも変わってしまうものなのでしょうか。20年という長い歳月は、ニューヨークという最悪の都会を何ら変えることはなくても、そこに視線を送る人間を変質させるには十分過ぎるということなのかも知れません。極めて退屈な自己完結の物語、とどのつまりは「これがオレのニューヨークだ!」というだけの作品なのだと思うのですが、ホンの50センチの違いで、あたかも神の視座を獲得したかの如く「錯覚」する人間の映す風景など、もはやフィクションでしかありません。

 作品の冒頭、その舞台が「90年代初頭のニューヨーク」であるとの註釈が入るのですが、現市長の活躍もあって、どうやら現在のニューヨークはその頃に比べて随分とマトモになっているようです。『タクシードライバー』に於けるトラビスの「逸脱」が「政治の無力」をその背景の一つとしていただけに何とも皮肉な話、『救命士』に充満する些か腑抜けた空気は、もはやトラビス的「逸脱」が不要となった現実を監督が悟った故、あるいは極めて巧妙な「予防線」なのかも知れません。何れにせよ、「既にない」ものをそこに再現しているわけですから、それを「フィクション」と感じるのも道理、「これがオレのニューヨークだった!」という趣味の悪いノスタルジーなのかも知れません。

 やはり、どうしても『タクシードライバー』と比較してしまうものですから、この作品を悪く書かざるを得なくなってしまうのですが、念のために書いておけば、そんなに酷い作品でもありません。しかし、ポール・シュレイダーに脚本を書かせた時点で、スコセッシ監督は「比較される」ことをこの作品の前提としたはず、その「自信」が一体何処から来るのか、それだけは今以て謎です。あるいは、彼は告白したいのでしょうか。「オレは大人になった」と。

 話題作なのかどうかは知りませんが、公開初日でしたから、それ相応に混雑していました。我々は例によって指定席へ、本編が終わってエンド・クレジットに画面が切り替わった刹那、隣の席の男性が小声で「あれ?」と、隣の男性ばかりでなく、劇場全体が何となくそんな雰囲気でした。色々な意味で拍子抜けした人が多かったのかも知れません。映画の後は、劇場近くの中華料理屋で青島ビールを流し込みながらニコラス・ケイジの「頭髪の具合」などについてアレコレ歓談、私のいまだ子供じみた視線にも、歌舞伎町の夜はいつもと変わらずその猥雑さを極めて往きました。


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