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ハズバンズ
監督:ジョン・カサヴェテス
2000年3月29日(シネ・アミューズ)

 思考停止を回避せよ!



 アルフレッド・ヒチコックが監督した『ロープ』という、映画的に些か特異な作品があります。何が「特異」なのかと言うと、時間にして90分ほどのその作品の最初から最後までのショットが連続している、つまり作品全体が「1ショット」で撮られているということです。勿論、一度にカメラにセットできるフィルムの長さには限界があるので(時間にして20分程度)、実際にはそう見えるような「トリック」を使っているだけなのですが、その試みの大胆さには、それから何十年もの時を経た現在に於いても、やはり驚くべきものと言えます。如何にリアリスムを標榜しようとも、映画が逃れ難い「虚構性」を身に纏ってしまうのは、「映画内の時間」と「映画外の時間」に不一致が生じてしまう故に他ならないのですが、唯一『ロープ』に限っては、その問題を見事に「解決」しているとも言えるわけです。しかし、だからと言って、映画が何らか「現実」を獲得するわけでもなければ、そもそもヒチコック監督がリアリスムを標榜したわけでもないのなど言うまでもないこと、何よりも尊いのは、映画それ自体が有する不自由極まりない「制度」に抗おうとする意志であり、それこそが彼の「作家」たる所以と言えるのでしょう。
 それはともかくとして、映画内外の時間に誤差が生じてしまうのは、『ロープ』を例外として、そこに「モンタージュ」があるからに他なりません。広義の意味でそれを解釈すれば、ジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』にもやはりモンタージュがあると言えるのですが、ここではもう少し狭い意味での、エイゼンシュタインがおよそ「弁証法的」と名付けたものに限定しておくことにしましょう。
 映画に於けるモンタージュ、つまり複数ショットの人為的連鎖は、ただ単に「時間」を省略することが可能なだけではなく(例えば、ある人物のA地点からB地点までの移動を説明するのに、A地点を出発するショットの後にB地点に到着するショットを続けるのなどは単に無駄な「時間」を省略するための連鎖と言えます)、その「繋ぎ方」によって新たな意味を捏造することもまた可能であり、一般にエイゼンシュタインがその理論を確立したと言われています。「理論」などと言っても別に難しい話でもなくて、例えば、走っている人間のショットの後にやはり走っている自動車のショットを続ければ、その人間が自動車に追い掛けられているという「意味」が生じるのなどもそれ、この場合、それぞれの走っている向きや、連鎖の順番を入れ替えることによって、全く同じショットを使ってそれ以外の幾つかの「意味」を生み出すこともまた可能になります。肝要なのは、それぞれの1ショットだけでは単に「(意味もなく)走っている」という意味しか持ち得ないということと、「追い掛けられている」という意味を示すのに、自動車と人間の両方を同時に捉えたショットは必ずしも必要ではないということです。
 従って「モンタージュの理論」というのは非常に有益で、およそ映像を媒介として何らか「意味」を伝達する装置である「映画」にとっては必要不可欠なものと言えます。当然ながら、モンタージュと「意味」の関係、あるいは、モンタージュに限らず、例えば「構図」と「意味」の関係なども含めて、言わば「マニュアル化」されています。つまり、必要に応じて何らかの意味を捏造する術は殆ど確立されているに等しく、そのテのガイドブックでも参照すれば、素人にもそこそこの作品が、少なくとも「意味」を伝達することくらいは誰にでもできます。一般に「分かり易い映画」というのは、そのマニュアルに忠実に、つまり観客との相互了解(およそ経験則による)の範囲内の作法を守って作られたものということになります。誰にでも分かる方法で説明する、常用漢字の範囲内で平易な表現を心掛けたテクストなど想起すれば分かり易いかも知れません。ハリウッドに数多いる所謂「職業監督」というのはそのマニュアルを熟知していて、そこから決して逸脱することなく「上手く」映画を作ります。
 しかし、理論化されたモンタージュというのは、またおよそ画一的な「意味」を押し付けるものでもあり、それ故に観る側に「思考停止」を促すものでもあります。ハリウッド式商業主義映画が「思考停止」の装置に他ならないのは、そもそも何らの思考を排除しても、そこに意味を伝達し得るだけの機能が備わっている故、旧ソ連が生み出したプロパガンダの装置が世紀末の資本主義社会で痴呆を大量生産しているというのもまた皮肉な話です。勿論、予め「思考停止」を目的として映画館に足を運ぶ人が多いことを否定しませんし、それを悪いことだとも思っていません。あるいは結果として呈示される「意味」こそが重要、分かり易い方法でそれが伝達されて何が悪いのか、という人もいることと思いますが、何であれ平易な表現によって伝達される情報は「薄い」のが相場、観る側の思考に些かも依拠しない作品など、一体何の「価値」があるというのでしょう?

 カメラの位置を固定した上でダラダラ長回し、その向こう側では俳優がおよそ「即興」で演技をする、「一体何処に監督の仕事があるのか?」と疑いたくなるような極めて「自然」な撮影方法が、しかし、むしろ「反=映画的」とされてしまう理由は既述の通り、ハリウッド式「意味の押し付け」こそが「映画的」と思われているからです。確かに、そこに在るのは極めて冗長なフィルムです。そこに在るのと同様の「意味」を、もっと退屈させない方法で(つまり有効なモンタージュを駆使して)伝達することも勿論可能なのでしょう。しかし、そこで同様に伝達し得る「意味」とは、あくまでも状況説明としても「意味」に過ぎず、それ以外の、例えばそこでダラダラとアルコールを流し込んで酩酊し、仕舞いにはパンツまで下ろしてしまうピーター・フォーク演じる人物の奥底にある「意味」など、簡単に置き換えられたりはしないのです。勿論、それが最良の方法であるなどとは言わないにせよ、しかし、その方法によってしか伝達し得ない「意味」もまたあるということです。そもそも、モンタージュなど存在しない「日常」とは極めて冗長なもの、だからと言って5分おきにも欠伸をする人など皆無のはずが、しかし、同様のことを映画館で体験すると忽ちに欠伸をしてしまう人が多いのは、映画館を「退屈な日常」以上にも思考停止の場所と考えている人が多いという証左、日常で「意味」を見出せる人が映画館では「無意味」をしか見出せないというのは、どう考えても不幸な話、まずは「思考」の余地をそこに残すこと、そして、予め了解している「意味」の「再確認」という不毛な作業を抛棄することです。

 これはジョン・カサヴェテス監督が1970年に撮った作品、日本では今回が初上映のようです。その後のカサヴェテス作品の常連となるピーター・フォークやベン・ギャザラが出演、カサヴェテス自身、俳優としても出演しています。この3人の繋がりが如何に深かったかというのは、現在でも続いているピーター・フォーク主演の人気シリーズ、彼のライフワークと言ってもよい「刑事コロンボ」などみればよく分かります。カサヴェテスが「黒のエチュード」(出演、監督)と「白鳥の歌」(監督)に、ギャザラが「歌声の消えた海」(出演、監督)と「権力の墓穴」(出演、監督)に関わっています。また、『ハズバンズ』の中で、ピーター・フォークがキビキビとバスケットボールに興じる場面があるのですが、何となく違和感を覚えてしまうのは、やはり「刑事コロンボ」のイメイジのせいなのでしょう。

 私の日常に於いては、基本的に平日の午後1時から午後8時までが私の意のママにならない時間、つまり、生活の糧を得るための動作に勤しまざるを得ない時間ということになっているのですが、それに地下鉄に揺られる前後の時間も合わせると、およそ平日の正午から午後9時までが不本意にも「意味を押し付けられた」極めて不毛な時間帯ということになります。正午の出勤というのは、通勤ラッシュとも無縁ですし、非常にラクチンなのですが、しかし、その時間帯が映画館の開館している時間帯に殆ど一致しているというのが如何ともし難いところ、平日に映画館に足を運ぶことなど不可能に等しいわけです。この作品を平日の午後、渋谷で観ることができたのは、他でもない、その不毛な動作をサボタージュした故、勿論、欠勤したのではなく、「出勤しているフリ」で上手く誤魔化したという次第。
 100人程度の座席しかない小さな映画館ですが、平日の昼間だというのにその殆どのが埋まっていました。そして、私の一つ前の席に座っていたのは、オウム関連で有名になった江川紹子弁護士、東京で生活していると有名人(「ブラウン管を介して目撃する機会の多い人」に同義)に偶然出会すことなど然して珍しくもないのですが、映画館でそれを体験するのは今回が初めてのことでした。まあ、「有名人」というヤツは、そういう人達向けに特化された試写会で映画を観るというのが相場、ノコノコと渋谷の劇場に足を運んだりなどしないのでしょうから、その確率が薄いのも当然のことなのかも知れません。それにしても、江川弁護士とジョン・カサヴェテスというのは何とも意外な組み合わせ、やはりブラウン管を介して喚起されるイメイジは、現実をかなり歪めるということなのかも知れません。


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