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ストレイト・ストーリー
監督:デイヴィッド・リンチ
2000年4月1日(新宿ジョイシネマ2)

 それは「異形」の物語



 歳を取って最悪なことは?
 若い頃のことを憶えていることだ

 非常に印象深い言葉であり、また、この作品を評するに於いて、おそらくは最も引用されている台詞であるに違いありません。これを語ったアルヴィン・ストレイトの半分も生きていない私が、何らか実感を以てこれを理解することなど到底不可能、おそらくは「真実」なのであろうと漸く「想像」できる程度のものです。しかし、この言葉を丁度裏返して考えてみると、極めて現実的なものとして容易に理解が及びます。つまりはこういうことです。

 若さにとって最良のことは?
 歳を取った時のことなど想像もできないことだ

 人間とはそういうものではないでしょうか。老いさらばえる未来のこと、あるいは、その「次」に起こってしまうことなど想像もできない、否、むしろ無意識的にも想像を回避することが現在を生き易くしている、いつまでも「変わらない」と錯覚するからこそ、今日を積み重ねて往けるのです。従って、若者にとって老人というのは、ある種「異質」な存在、それは若者ばかりではなく、例えば60歳の人からみれば、70歳の人は十分「異質」な存在、そこに自身の「未来」を素直に投影できない故の「違和感」とでも表すれば少しは分かり易くなるでしょうか。

 個人的には実にクダラナイ話だと思っているのですが、しかし、この作品を評するに於いて最重要視されていることの一つは、どうやら「リンチは変わったのか?」ということのようです。実際、この作品のパンフレットには同様の質問を複数の「リンチ・マニア」に試みたインタビュー記事が決して少なくない頁数を割いて掲載されています。そして、何れの「リンチ・マニア」も「何も変わっていない」と応え、得意げにその「具体例」を説明したりしています。私は別に「リンチ・マニア」というわけでもありませんし、それにそもそも、誰も私に同様の質問などしてくれませんから、それに応える必要など何処にもないのですが、やはり私も、彼ら同様「何も変わっていない」と応えてみたくなったりしています。何故なら、この作品は紛れもなく「異形」を扱った映画である故、何が「異形」であるかなど言うまでもないこと、その説明は既に済んでいます。

 例えば、フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』と『道』、その何れにも「異形」が登場するのですが、しかし、作品そのものを含めた、その性質は全く違うものとなっています。前者に数多く登場する「異形」、例えば、サラギーナという女性など、何処か哀れを誘うものの、しかし、むしろ滑稽で不気味な存在であるに止まっています。後者に於いては、他でもないジェルソミーナとザンパノー、つまり主人公の二人(他にも大勢登場しますが)がそもそも「異形」、彼らは確かに滑稽ではあるものの、しかし、決してそれに止まるものではありません。その差違は、およそ彼らがスクリーン上の何処に「立つ」かによって決まります。つまり、映画に於ける「異形」は、彼らがスクリーンの端にあるとき、マサに「異形」である故に滑稽さや不気味さを増幅させるものの、しかし、一度スクリーンの真ん中に立つと、彼らは「異形」としての悲しみを我々に訴えかけてきます。勿論、それは我々の側の問題でもあるのは、「異形」が真摯な視線を我々に向けるとき、決してそれを無視したりすることができない、あるいは「畏怖」にも似た感情をそこに発見するからに他なりません。「異形」がスクリーンの脇役として滑稽さをもたらす装置として機能し得るのも、彼らがそこに隠された「本質」を有し、我々もまたそれを暗黙のうちにも了解しているからと言えるのでしょう。そして、それを誰よりもよく理解しているのは、他でもない、スクリーンに「異形」を配する監督自身、デイヴィッド・リンチの場合なら『エレファント・マン』など観れば、それがよく分かります。勿論、「異形」をスクリーンの真ん中に登場させても、しかし、それとは全く別の扱いをする監督や作品も存在します。それらはおよそ「カルト」と、その意味ではデイヴィッド・リンチは決して「カルト」ではありません。何れにせよ、トラクターで旅をするアルヴィン・ストレイトが、もし仮に、リンチ監督の別の作品の単なる脇役として登場したならば、誰しもがそこに滑稽さをのみ発見するであろうことなど想像するまでもないこと、彼が「異形」に他ならない何よりの証左と言えます。

 老人を「異形」扱いするのには、やはり抵抗のある人も多いことでしょう。しかし、冒頭に引用した台詞の少し前、自転車競技に参加する若者達がアルヴィンを拍手を以て迎えるのは、彼がその若者達にとって「異形」以外の何者でもないからに他なりません。それは、ヒッチハイクの若い女性や、彼に庭先を貸す中年夫婦にしてもまた同じことです。勿論、アルヴィンの場合、その「異形」は彼が老人であるということにのみ由来するのではなく、彼に出会う誰しもがまず口にしたように、彼が「奇妙な乗り物」に乗って、とても尋常とは思えないことを為そうとしている故、しかし、それでもやはり、彼が老人であるからこその「異形」だと私は思っています。私が電車で老人に席を譲るのは、やはりそこに「異形」を発見する故、(私とは違って)席を譲らない人にしても、その理由はやはり同じ、「異形」を拒絶する人間の感情を理解するのは、そんなに難しいことではありません。「異形」である故に、彼に興味を示しその言葉に耳を傾ける、そして何よりも、文字通り「ストレイト・ストーリー」でしかないものが、映画的「物語」として機能し得るのは、「異形」がそれを演じるからなのです。酷い言い草と思うなかれ、「はじめてのおつかい」を阿房面で眺める人にしても、やはり同罪なのですから。

 念のため、この作品には、勿論、アルヴィン・ストレイトを「異形」と見做さない人達も登場します。そんな場面、特に戦争体験を語る旅先での酒場の場面を美しくも感じたのは、そこに(私にとっての)「異形」が二つ並んでいたからなのかも知れません。

 好きな場面は、何処からともなく現れる「犬の大群」とか「無意味に燃える小屋」、あるいは「鹿の角」とか「大仰に爆発するトラクター」等々、と、よく考えてみると、これが所謂「リンチ的」というヤツ、我ながら「凡庸の極」です。

 下北沢でモタモタとジーンズなど物色していたものですから、歌舞伎町にある映画館に到着したのは漸く上映開始5分前、土曜日の夕刻、新宿東口のアタリをゼイゼイと疾走する男を見掛けた人がいたならば、「それが私です」とここに告白しておくことにしましょう。肝心の座席に関しては、それなりに混雑はしていたものの、連れのいない身軽さで割と良い席を確保することができました。観客の反応はどうだったのでしょう。エンド・クレジットの最中に矢鱈と鼻を啜っている人がいたようなのですが、あるいはスギ花粉など大量発生していたのかも知れません。


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