Index

 
ニコラ
監督:クロード・ミレール
2000年4月2日(シネスイッチ銀座)

 そこに残される理解のズレ



 エンド・クレジットが流れているとき、「随分と後味の悪い映画ねぇ」と後ろの席の女性。上映開始前にチラと眺めた記憶によると、映画評論家とその連れ合いと言った風情の中年カップル、その言葉は、勿論、連れの男性に向けられたものだったのでしょうが、しかし、その声は劇場全体に届くのではと思うくらい大きなもの、まるで観客全員に同意を求めているかのようでした。
 確かに「後味の悪い」作品でした。物語的にもそうですし、フランス映画特有の(と一般的に思われている)今ひとつ「説明」を欠いた結末の描写等々、それは、この作品に対する、通俗的ではあっても、妥当な表現の一つに違いありません。そして、その何よりもの原因は、結末を伝えられた二者に於ける理解の「ズレ」にこそ、むしろ「傍観者」が優位にあるという些か特異な状況が、その「後味の悪さ」の因となっているのです。ここで言う「二者」とは、スクリーンにある子供(ニコラとその友人)と「傍観者」としての大人(観客)のことであり、後者にその意味が伝わっても、前者には必ずしもそれが正確に伝わっていないという奇妙な「逆転」の状況がそこに生まれてしまうことが、その「後味の悪さ」を引き起こしてしまうのです。
 この作品はその結末を迎える段に至って、観客に対してそれが知れないよう、かなり露骨な隠蔽工作を始めます。例えば、女性教師が(結末を伝える)電話を受ける場面、カメラは磨りガラス越しに彼女の「動揺」を意味するシルエットを映すのみ、当然ながら電話の内容を知ることもできません。また、教師達は彼らにそれを直接伝えないことを申し合わせ、結論を「先延ばし」にします。勿論、そんなことはエンターテイメントとしての映画では常道、今さら驚くべきことでもないのですが、しかし、この作品の場合、その隠蔽工作が観客に対して為されているばかりではなく、スクリーン上の存在、主人公であるニコラに対しても為されており(物語構成上、観客に対して隠蔽する便宜上、ニコラに対しても隠蔽せざるを得なくなったのでしょうが)、さらには、その隠蔽されていた結末を知る瞬間をもまたその両者が共有することになるところが些か特異なのです。そして、その結末が、子供には容易に理解の及ばないであろう類の事実である故、大人である観客とスクリーン上の子供という二者の間に於ける理解の「ズレ」が生じ、そのおぞましい物語的事実も相俟って、あるいは罪悪感にも似た感情を観客の中に残してしまうのです。ニコラの友人が呆然とニュース映像を眺めている場面など象徴的、おそらく彼はそこで伝えられる事実をどれほども理解できていないはずです。
 この作品には原作があって、映画では原作にある後日譚的な部分(構成上、その後日譚の方が「現在」となっており、映画化された子供時代の方はむしろ「回想」として描かれているそうですが)が割愛されているようです。原作によると(読んだわけではありません)、どうやらニコラの友人は、その「事実」を正確に理解しなかったことが心的外傷となり、社会的落伍者になってしまうようです。この映画に残る「後味の悪さ」とはつまりそれ、傍観者たる観客はすべての「事実」を知りながらも、しかし同時に、彼をみすみす落伍者に至らしめてしまう無力な存在でしかあり得ないという、それは、あるいは、映画が映画である所以を知る瞬間ともまた言えるのかも知れません。
 尤も、こういった「構造」自体は映画的に然して珍しいものでもなくて、例えばロベルト・ベニーニ監督の『ライフ・イズ・ビューティフル』では、主人公の息子が最後まで物語を「誤解」していることを我々は目撃します。しかし、そこに「後味の悪さ」は残りません。その違いは何処にあるのでしょう。『ニコラ』の場合、中途半端にその「誤解」がとけてしまう、むしろ「誤解」をさらに歪めてしまう可能性が示唆されていることや、そもそもの結末の「暗さ」にも当然その因があると言えます。しかし、その一番の原因は、物語の殆ど全編に於いて、観客が子供(ニコラ)の不可解な妄想に付き合わされ、その理解をこそがそこに在る「目的」とさせられていたこと、つまり子供なりの、あるいは子供故の些か妄想気味の現実認識を、ともすれば大人であることを卑下したくもなるような感覚を以て目撃し続けていたのが一転、スクリーン上の大人が(大人としてのあるべき態度として)子供に対して「現実」を遮断するや否や、その関係が唐突に逆転、むしろ正常とも言える大人と子供の関係を取り戻し、観客の側が優位を獲得してしまうことにあると言えるのです。他方、ベニーニのそれでは、庇護者としての大人が徹頭徹尾優位にあり、観客もまたそれに同調、「嘘も方便」という大人の態度を疑う余地なく了承するに至るのです。余りにも多く子供の「現実」をみせられてしまう『ニコラ』に於いてそれを得るのはさすがに困難、むしろ観客(大人)に勝手な了解を許さず、「後味の悪さ」が残る分、この作品の視線が有する「誠実さ」を認めるべきなのかも知れません。

 この作品の主体となるニコラの妄想の起源は、監督自身も認めているように、「エディプス・コンプレックス」という、映画的、物語的には極めて在り来たりなものと理解しても別に構わないのかも知れません。その意味では、ブルー・フィルターを介してそこに展開する「妄想自体」を別にすれば、この作品にどれ程の「驚き」があるとも思えませんでした。ただ、個人的に非常に興味深いと感じたのは、子供の妄想を喚起する「禁忌」の一つとして、人間の「内臓」が示されていたことです。それに関わる妄想が物語的に極めて重要な意味を持つことからも、むしろ「エディプス」云々より、余程意義深いものと感じました。私自身を振り返ってみても、確かに同様の意識はありましたし、大人になった今でも、それに対するある種の「恐怖心」を抱き続けています。
 私事ながら、今から丁度一年前に虫垂炎の手術を、局部麻酔でしたから、私の内臓を弄り回す医師の姿や、照明機器に映る自身の血まみれの腹部を目撃して随分と気味の悪い思いをしました。そして何よりも物騒だったのは、これは体験した人でもなければ想像もできないことだと思うのですが、医師が虫垂をグイと引っ張るとそれに併せて喉元に得も言われぬ圧迫感が、食道器官が紛れもなく「一繋がり」になっているという生物学的事実を身を持って理解しました。
 それはともかくとしても、その表層を覆う「柔らかい肌」が性的妄想を喚起するものならば、「内臓」は生の根源、あるいは「死」のイメイジを喚起するもの、昨今「現実主義的」ともされている戦争映画の類に「飛び出す内臓」が描かれていたりするのも、おそらくはそれと無関係ではないのでしょう。例えば、ガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』にあるこんな一節は、単なる表層としての「グロテスクさ」以上の恐怖、イメイジとしての「死」を容赦なく突き付けます。

 彼は体をよじるようにして起き上がると、垂れ下がった腸を両手で支えながら…。

 尚、『ニコラ』にも描かれている「死」と「エロティズム」の関係については、やはり映画的、物語的に余りにも多く語られていること、今さら私がここに何らかを記すまでもないことのように思われます。最近観た映画で言えば、大島渚監督の『御法度』などもそんなことが物語の底流としてある作品でしょう。尤も、「内臓」のそれとは違って、個人的にそれを何らか実感できるかと言えば、必ずしもそうではなくて、例えば、ニコラ少年や三島由紀夫のように「死」の妄想を以て射精に至るという経験も、幸か不幸か、いまだかつてありません。

 クロード・ミレールと言えば、『なまいきシャルロット』や『小さな泥棒』が好きな関係で、子供の映画を撮る監督というイメイジがあります。また、フランソワ・トリュフォーと長く仕事をしていたことでも知られており、『小さな泥棒』が彼の遺稿を元に制作された作品であるというのは有名な話です。しかし、これまでの作品が、トリュフォーがそうであったように、「庇護者」の立場として子供を描いていたのに対して、『ニコラ』に於いては、既述の通り、その立場を少し変えています。トリュフォーのそれがおよそ彼自身の「不幸な子供時代」に負っているのはよく知られた話、パンフレットに掲載されていたミレール監督のインタビュー記事を参照すると、彼の子供時代はトリュフォーのそれとは違い極く普通に「幸福」だったそうですから、違いはやはりそのあたりに、子供に対するある種「冷徹な視線」を「虚構」に持ち込むことも比較的容易だったのかも知れないと想像することができます。

 公開二日目の日曜日にしてガラガラの劇場、ここのところ観ていた作品の性質のせいもあるのでしょうが、こういうのも随分と久しぶり、余り好ましい話でもないとは言え、むしろ新鮮な感じがしました。観客の絶対数が少ないとは言え、その圧倒的な女性比率の高さは、もはや「シネスイッチ銀座」の常態とでも言うべき現象、配給者がそれを意図した作品選びをしているのは疑う余地のないところです。


Index