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皆殺しの天使(1962年 メキシコ)
監督:ルイス・ブニュエル
2000年4月7日(私の映画史 #5/100)

 宙吊りにされた意味



 映画、あるいは映像表現に於ける「意味するもの」と「意味されるもの」の関係は非常に緊密であると言われています。その関係とはつまり、言語表現に於ける「イヌ」という記号とそれが指示する我々に馴染み深い動物のそれと同様であり、映像は何よりも「意味するもの」として犬の姿そのものをそこに示すわけですから、迂闊な人がその両者を等号で連結してしまうことがあっても別に不思議ではありません。尤も、それは極めて単純なレベルでの話であり、場合によっては「意味するもの」が直接的でなかったり、「意味されるもの」が「共示」を数多く内包した多義的なものであったりと、その関係のレベルは様々、それが複雑になるに従って、受信者に要求されるものが増大していくのは、その他の場合とやはり同様です。しかし、その関係や構造が如何に複雑であっても、大抵の人にとって、純粋に「未知」な映像(意味するもの)など殆ど存在しないはず、そこに解釈のレベルに於ける深浅の差異が生まれるにせよ、何らの情報(意味されるもの)をも示さない映像など、やはり殆ど存在せず、その意味に於いて、如何なる場面に於いても関係の緊密さは保持されているとも言えるわけです。そこが言語表現との違い、例えば「開闢」という語彙は、おそらくは多くの人にとって「未知」の記号であり、「意味されるもの」との関係が把握できないことを以て、およそ「無意味」なものに転じてしまうこともあり得るのですが、映像には純粋に「無意味」なものなど、仮に発信者が明確な意志を持ってそれを実現しようとしても、殆どあり得ないのです。

 しかし、そんなことを言っていては埒が明きませんから、もう少し尺度を広くして考えてみると、確かに「無意味」な映像というのは存在します。最も浅いレベルでの解釈を与え得る以外、「意味するもの」としてすら難解なもの、あるいはそれらの「連鎖」に矛盾をしか発見し得ないものなどがそれに該当すると言えるのでしょう。およそ発信者の「言語活動」に補完されて漸く「無意味」であることを免れ得る「アバンギャルド」など、大抵の良識ある人達にとって、それ自体では殆ど「無意味」なものに違いありません。「受信者に要求されるもの」の質量の問題として、それらを「芸術的」と理解することも、あるいは可能なのかも知れませんが、しかし、それが映像以外の、およそ(映像に付随するものではなく、映像外の)言語活動に拠っているところが致命的、それが単なる「自己満足」と片付けられても致し方のない所以です。
 逆に、「意味するもの」と「意味されるもの」の関係が緊密さを保持したまま、そこからどれほどの逸脱もあり得ない、つまり、およそ表層的な「情報伝達」の機能をしか有しない映像というのも、少なくとも「芸術性」を云々する場面に於いては、物足りなさを感じてしまいます。「意味するもの」が直裁で、「意味されるもの」の守備範囲も狭い、それが「映画」の場合ならば、「情報」(の総体)とは即ち「物語」であり、所謂「分かり易い映画」とはそういう類の作品です。そこで誰しもが容易に獲得できるという利点を有した「物語」を論じ(「分かり易い映画」を擁護する人達は、その「利点」をこそ第一義と考えます)、その解釈の差異を競うがことが無意味なのは、それが「言語活動」以外の何ものでもない故、映像を言語に変換することがすべての起点であるかのような誤謬は極めて不幸なものと言えます。勿論、人間によるあらゆる「理解」が言語活動に他ならないのは言うまでもないこと、問題にすべきは、言語への変換し易さを映像に要求する姿勢であり、そこに自身の貧しい経験則に適う意味を押し付けなくては気が済まないという、殊更に「貧しい」言語活動なのです。

 映画、あるいは映像表現に於いて、「意味するもの」が明瞭であるにも関わらず、しかし、「意味されるもの」が容易に確定され得ない状態を、「意味が宙吊りにされている」と表現したのは彼のロラン・バルト、そして、その彼が「見事に意味が宙吊りにされた映画」と評したのがこの作品、『皆殺しの天使』です。物語も含めて、そこに「在る」ものだけを追い掛けている分には実に分かり易いのですが、一度「意味」を探ろうと試みると忽ち混乱が生じてしまう、簡単に言えば、そんな類の作品だと言えます。それは間違っても「無意味」と同義なのではなく「意味はあっても意味はない」という些か厄介な、スクリーン上の「意味するもの」によって明確に指示される何らかがスクリーン上に存在しないにも関わらず、しかし、そこに間違いなく何らかの「意味」が内包されていることを受信者に予感させる、それを発信する人間の「技術」ということで言えば、おそらくはかなり高等なそれが要求されるものに違いありません。些か独善的な「アバンギャルド」との違いは、それが言語活動に補完される必要がないどころか、一切の言語活動を抛棄してすらも、尚、そこに「意味」が残るということです。また、殊更に難解な言語を用いて、そこに在る、やはり難解な意味の理解を要求する(つまり「意味されるもの」との関係性を理解するために高度の知性の所有を前提とする)如何にも勿体ぶった、予め受信者を選別するかのような作品とも差別化されるもの、何故なら、スクリーン上に在るそれらの関係性を理解するに於いては、受信者に一切の知性を要求しないどころか、むしろ、その抛棄をこそ促していると言えるからです。
 そうなると、結局は「スクリーンの外」に在る(と予感させている)「意味(されるもの)」が、この作品を真に理解するに於いて重要と言えるのかも知れません。つまり「暗喩」とか「象徴」と言った類の、退屈極まりない言語活動のそれです。勿論、それは認めざるを得ないのですが、しかし、例えば「既存のモラルに対する反撥が云々」などというおそらくはブニュエル監督が有しているのであろう思想信条を解説することと、『皆殺しの天使』という作品を評するのは全くの別物、バルトがそうしたように「意味が宙吊りにされている」とその作品の「状態」を的確に指摘することこそが、好ましい「映画評」の在り方ではないかと、個人的には、そう思っています。勿論、私の「これ」がそれを実現するものであるなどと言うつもりは毛頭ありません。

 この作品を観たのは以前、池袋の東口にあった「ACT」という小さな劇場、高田馬場に旧くからある「ACT」の姉妹館だったと認識しています。オールナイトの特集上映などにもよく足を運んだ記憶があるのですが、「高邁な思想」の常として、やはり経営不振だったのでしょう、いつの間にか閉館になっていました。後先の話で言えば、ロラン・バルトの評を目にしたのが先、このテクストが甚だしくも脱線しているのは、そもそもそういう「気構え」でこの作品を体験したという事実が大きく関わっています。
 ある映画作品を論ずるに於いて、その「物語」には一切言及せず、しかし、読み手にその作品に対する興味を強く抱かせる、個人的にはそんなことを「理想」としているのですが、バルトの映画評などマサにそれ、「意味が宙吊りにされた映画」と言われて、興味を抱かない人が一体何処にいるというのでしょう?


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