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スリー・キングス
監督:デイビッド・O・ラッセル
2000年4月8日(新宿ジョイシネマ1)

 機能不全の不真面目さ



 情報化社会と呼ばれて久しい昨今、我々は自宅に居ながらにして、およそ「世界」のことを知ることができます。そんな場面に於いて、我々の「眼」となるのがテレビカメラであるのは今さら言うまでもないことです。我々はテレビニュース、取り分けそこに映される映像によって、死ぬまでに一度も訪れないであろう遠い「世界」の出来事を目撃するに至るのです。しかし、残念なことに、我々はあくまでもテレビカメラに視線を借りて漸くそれらを目撃できているに過ぎず、従って、実際に目撃できるのは、必ずしも我々の意志や欲求と連動しているとは言えない「テレビカメラの意志」の範囲内での出来事に限られてしまいます。我々が幾ら欲しても、テレビカメラの気の向かない出来事や「世界」を目撃することはまず不可能、我々が「世界」と錯覚しているものは、あくまでもテレビカメラの行動範囲の内側にある全体(そんなものがあるとすれば)の一部分に過ぎないともまた言えるのかも知れません。それは「空間」の問題に止まらず、「時間」に於いてもまた同様の問題を孕んでおり、テレビカメラを介してのみ目撃される世界の「時間」とは、その視線の「持続」によって漸く支えられているのであり、その「持続」の終わりは即ちその世界に於ける「時間」の終わりでもあるのです。
 映画もやはり、我々に何かを「目撃させる」装置であることに変わりはありません。しかし、その「制度的」不自由さ、フットワークの悪さを指摘するまでもなく、情報媒体としてのテレビが担っているそれには到底及ばないのが現実です。しかし、テレビがその存在を否定することに躍起になっている「意志」を、むしろ特権的に振り翳すことができるのが映画、その意味では、我々に「何を目撃させるか」という選択の場面に於いては、テレビとは比べものにならないくらいの自由さを有しているとも言えます。何よりも、それが必ずしも事実である必要はなく、そこに収束する物語を捏造することによって、紛れもない「意志」を表明することが可能なのです。それは時として、テレビカメラの不自由さを見事に補完し、既に停止したはずの「時間」を再び動作させることもまた可能に、先の湾岸戦争に関するこの作品に「情報」としての価値があるとするならば、おそらくはそんなところに違いありません。

 この『スリー・キングス』という作品が、如何にも中途半端で、およそ支離滅裂なシロモノであることなど、既に各方面で指摘されていること、今さら私がそれを繰り返す必要もないのかも知れません。今どき些か不真面目な戦争映画など然して珍しくもないのですが、しかし、その「不真面目さ」が見事に宙に浮いたまま、映画的に何ら機能していないところが「中途半端」と評されてしまう所以、あるいはそれが、およそ「真面目さ」を隠蔽するためにのみそこに配置されているとしか思えません。彼らの不真面目さは決して物語的「逸脱」ではなく、あくまでも説話論的磁場に引き寄せられていく過程での、些か大仰な身振りであるに過ぎず、何らか機能性を有した不真面目さがそうであるように、それ自体が説話論的持続を促すものではありません。何よりも、彼らが私利私欲のためにイラクの金塊を強奪するという、極めて不真面目な動作にしても、しかしそれは、あくまでも彼らを「目撃者」に仕立て上げるための便宜に過ぎず、また、彼らが物語的不幸として獲得してしまった「ヒューマニズム」という、それがおよそ今どきの戦争映画に於ける「本当らしさのコード」を無視している故に、やはり「不真面目」でしかない一連の動作にしても、予めそこに用意されたメロドラマを見事収束に向かわせるための妥当な身振り以上のものではないのです。彼らは我々に何かを「目撃させる」ためにのみ、およそ整合性を欠いた、支離滅裂な人格をそこに躍らせていたに過ぎません。彼らは糸で吊られた人形であり、その些か大仰な道化ぶりは、それ自体何らの意味をも持たず、彼らの背後にある書割りの風景を、ほんの少し見辛くしていただけ、結局のところ、彼らに与えられていた役割はそれだけだったのかも知れません。
 軍隊に於ける「不真面目さ」が行き着く先は「軍法会議」と相場が決まっています。必ずしも現実的ではない物語の常として、彼らは見事にそれを回避するのですが、しかしその顛末が彼らの不能ぶり、「不真面目さ」の機能不全を実に象徴的に示しているように思われます。彼らはテレビカメラという「証人」を獲得することによってそれを回避するのですが、それが如何にも情けないのは、この作品が本来、テレビカメラが身勝手にも停止させてしまった「時間」を、映画的「意志」によって再び動作させたはずのものであった故、親切にもテレビカメラにその「時間」を再び譲ってしまうなど、どう考えても「不真面目さ」が帰結すべき場所ではありません。例えば、ロバート・アルトマン監督の『M★A★S★H』に於いて、見事なまでにその「不真面目さ」を機能させた軍医達は、彼らの上官を麻酔注射で眠らせた上で日本人娼婦と同衾させ、その証拠写真を自らの手で捏造するという、つまり本来の不真面目さに相応しい極めて「不真面目」な着地点を目指すことによって「軍法会議」を回避します。彼らの不真面目さはその持続を約束するもの、あるいは、その持続のためにのみ彼らは不真面目であり続けるという、彼らは決して説話論的磁場に巻き込まれることなく、その「攪乱者」としての立場で物語を遣り過ごしてしまうのです。勿論、それが映画である以上、彼らとて真の自発性など何処にも持ち得ていないのですが、しかし、少なくとも彼らの手足に繋がれた糸が、観客の視線に無様にも晒されてしまうことなどありません。何れにせよ、『スリー・キングス』の彼らは物語を攪乱することもなければ、そこから逸脱することすらなく、ひたすら物語に従順に、誰の期待を裏切ることなく、スクリーンから姿を消して往くのです。

 彼らがその大仰な身振りで見辛くしていた「書割」の正体、テレビカメラの怠慢によって我々に目撃されることのなかった湾岸戦争、あるいはイラクの現実についてここで何らかを論じても余り意味がありません。言えることがあるとすれば、それが「書割」と茶化したくなる程度のものでしかなかったということ、「拷問」の場面で、イラク兵の台詞を借りてゴタゴタと「説明」していたのなど、余りにも稚拙です。如何にも映画的な「国境越え」の場面にしても、むしろ国境線のアチラ側の方が空間として「狭い」という貧困極まりない映像は、とてもそこに「自由」があるとは感じ得ない不可解さ、それがイロニーならばまだ理解が及ぶのですが、他のことも含めて、この監督を「確信犯」と考えるのは少し無理があるような気がします。

 結局のところ、この作品に「不真面目さ」が持ち込まれたのは、やはりその「書割」の真面目さを隠蔽するため、何故その必要があったのかと言えば、それは今どきの風潮としてあるアレ、真面目ぶるのは余り格好がよろしくないので表層として不真面目を装うという、まあ、そんなところではないでしょうか。「テレビゲームのよう」とも表現されていた湾岸戦争の内実を告発するに於いて、「新感覚」などと評されてもいる空虚としか言いようがない、マサしく「ゲーム感覚」の映像を駆使するという恐るべき矛盾と混乱は、それが確信犯的イロニーでもなければ、もはや絶望的としか言いようがありません。

 公開初日の土曜日の午後にして、全体の半分の席すら埋まっていなかったのは、この作品が「ジョージ・クルーニー主演」という以外、何らの集客要素も有していなかった故のことでしょう。そのジョージ・クルーニーが日本でどの程度人気のある俳優なのか、今一つよく分かりません。そう言えば、いつもの同行者が珍しく「面白かった」と感想を述べていました。世の中は分からないものです。


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