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サマー・オブ・サム
監督:スパイク・リー
2000年4月15日(シネマスクエア東急)

 虚構による虚構の再現



 ある意味、あらゆる映画など「既知の再現」に過ぎないのですが、もう少し意味を狭めて話をすれば、実在の人物や現実に起こった事件の類を扱った作品など、まさに映画による「既知の再現」と言えます。しかし、そこに「物語」の存在なくしては決して成立し得ない「映画」に於いては、如何に事実に忠実であろうと、それが「虚構」であることを免れ得るものではありません。従って、そのような作品を撮る場合、重要となるのは、所詮は虚構とならざるを得ないものに対するスタンス、監督の気構えのように思われます。およそ「真実の物語」などという矛盾した表現を平気で使うのは、必ずしも映画作家の真意を伝達することを以て最善とは考えない宣伝担当の類だと思うのですが、それでも、中には「これは真実である!」などと厚顔無恥な宣言をする監督もいるわけで、もしそれがその監督の真意であるならば、先ず以てその人物の映画的感性を疑うべきでしょう。勿論、スクリーンに何一つの真実をも映せるものではないなどと悲観的なことを言うつもりはなく、あらゆる「物語」がそうであるように、作家が意図するしないに関わらず、(我々にとって既知である)真実なり真理というものはもっと別の形で表明されるもの、それを不満に思う人は、映画館に足を運ぶような愚かしい真似はせず、コンビニエンスストアの監視カメラでも一日中眺めていれば良いのです。

 この作品で印象深いのは、物語の最初と最後に繰り返し「これは800万の物語のうちの一つに過ぎない」と宣言されていることです。この場合の「800万」という数字は、おそらくはニューヨーク市の人口を示したもの、つまり、この作品が「サムの息子」による一連の事件、あるいはその夏を体験したニューヨーク市民の一人に纏る物語であるという宣言に相違ないものと思われます。勿論、繰り返し宣言してもらうまでもなく、この作品を観ればそんなことは一目瞭然なのですが、しかし、むしろそれ故にこそこのテの「宣言」は意味を持つとも言えるわけで、それが単なる「説明」ではなく、映画作家の「意思表示」であると容易に受け取ることができるのです。

 今さら20年以上前のニューヨークに思いを及ばせるまでもなく、我々の身近でも毎日のように「事件」は起きています。そしてそれらは大抵、テレビや新聞などのメディアを介して漸く我々の「体験」するところとなります。それは確かに「現実」であるには違いないのですが、しかし、それを認識するには必要として「媒体」を介さざるを得ないという前提条件も含めて、直接的な関わりを有しないという意味に於いては、殆ど「虚構」も同然の出来事であるとも言えます。最近の事件で言えば、本庄市で起こった保険金に纏る疑惑など好例、それを現実の事件、実在の人物と理解しこそすれ、ワイドショーに釘付けなるその視線が映画館でのそれと大差のないという事実は、多くの人が認めざるを得ないところではないでしょうか。「事実は小説よりも奇なり」というバイロンの言葉が如何わしいのは、そこで「事実」として差別化されているものも、所詮は「小説」と大差のない虚構に過ぎず、「事実」が人為と深く関わり、「創造」もまた偶発的事件に過ぎないという類似性を以て、実はそれらを分けることなど無意味に等しい故のことです。
 では、直接的と言わずとも、間接的に何らか関わりを持ってしまう「事件」の類はどうなのでしょう。それまでをも「虚構」と断じてしまうことにはおそらくは異論も多いことと思われます。例えば、先日の不幸な車両脱線事故、直接その電車に乗り合わせた人でなくても、時間帯の違う同じ電車を利用している人、その事故の影響で待ち合わせの時間にに遅れた人、あるいは、他府県に生活していながらも、通勤、通学で毎日電車を利用することから決して他人事とは思えない人、そんな人達にとっては極めて「現実的」な事件としてブラウン管と対峙していたに違いありません。しかし、少なくともその事件自体は極めて「現実的」ではあっても、「現実」とはまた違うものです。さらに言えば、それが現実的な事件であることを理由に、より多くの警句を含んだ事件であると殊更に重要視するのも、個人的には、単なる想像力の欠如のような気がしています。映画や文学などの明らかな「虚構」にもそれと殆ど同様のものが隠されていることに気が付かない迂闊さ、あるいは、流れるままに視界に捉え得るもののみを「情報」とする怠惰が。「より現実的な虚構」に過ぎないものを、何か特別なものと錯覚させてしまうのです。
 しかし、そこに何らの「現実」も存在しないかと言えば、そうではなく、車両脱線事故の話で言えば、そのせいで待ち合わせに遅刻したことや、事故を映したテレビニュースを家族で観たということが、その人間にとって唯一の「現実」、ブラウン管を介して目撃したその悲惨な事故自体が「現実」だろうが「虚構」だろうが、そんなことは大した問題でもないのです。

 この作品とはつまりそれ、「サムの息子」という所詮は虚構に過ぎないものを、さらにあからさまな「虚構=映画」によって再現するための、極めて誠実な方法の一つがそこに実現されていると言えます。この作品に於ける「サムの息子」は、例えば、そこで引用されているアバやシックの音楽と同様、1977年という時代に貼り付いた風景、雰囲気としての虚構の一つに過ぎません。そして、それら虚構を共有していた大勢の人間の一人に纏わる「現実」に視線を向けたのがこの作品、つまりは「800万の物語の一つ」というわけです。勿論、つい「現実」などと筆を滑らせてしまった「800万の物語の一つ」にしても、当然ながらスパイク・リー監督によって捏造された、文字通りの「物語」に過ぎず、従って、実際の事件を題材とした「既知の再現」でありながら、しかしすべては確信犯的「虚構」であるという、監視カメラ的「現実」の対極がそこに実現されているとも言えます。既述の通り、我々の極めて現実的な感覚をしてみれば、あらゆる(ブラウン管を介する類の)事件などむしろ「虚構」に近いわけですから、その再現を確信犯的に配置された「虚構」に依るというのは、考えるまでもなく、至極真当な方法論、リアリスムを謳いながら、しかし実際には「虚構」をさらに歪めているだけという唾棄すべき思考停止とは比較するまでもありません。

 スパイク・リー監督の作品と言えば、『ジャングル・フィーバー』くらいまでは熱心に劇場に足を運んでいた記憶があるのですが、それ以後は、何という理由もなく、その熱心さも薄れて、例えば『マルコムX』という、彼にしては凡庸な作品のような気がするやつなど、レンタルビデオで観るに止まっています。その『ジャングル・フィーバー』からどれほども時間が経っていないと勝手に思い込んでいたのですが、この作品が彼の13作目にあたる知って吃驚、決して彼が多作だというわけではないでしょう。
 さらに肌の色の違う私にしてみれば、スパイク・リー監督がイタリア系白人社会を題材に映画を撮るということの意味など、別にどうでも良いと思っているのですが、当のイタリア系白人にしてみると、やはりその心境は複雑なのでしょうか。
 カサヴェテス監督作品の常連でもあったベン・ギャザラが、イタリア系の「顔役」の役柄でその健在ぶりを示していたのが、何となく印象に残っています。

 いつもの同行者をして「デミオの人」と言わしめた「有名人」でもあるスパイク・リー監督も、本職の方の知名度はやはり今一つなのでしょうか、公開初日の土曜日の午後、然して大きくもない劇場の単館上映にも関わらず、全体の半分の席も埋まっていませんでした。同じビル内で上映されていた『マーシャル・ロー』とかいう「ドキュン映画」が立見の出る盛況ぶりだったことを考えると、実に寂しいお話です。
 これを観た翌日の日曜日、多少題材が似通っていることもあって、意地悪な比較をするつもりでやはり同じビル内で上映されていた『ボーン・コレクター』を観たのですが、これがまた比較にもならない「ドキュン映画」だったことを付け足しておきましょう。詳細に関しては、また稿を改めて。


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