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ボーン・コレクター
監督:フィリップ・ノイス
2000年4月16日(新宿ミラノ座)

 精度の高い優秀なシステム



 ロバート・アルトマン監督の『ザ・プレイヤー』という、ハリウッド式映画制作システムを徹底的に茶化した有名な作品があります。その中に、そのシステムの阿房さ加減を象徴したような「映画中映画」が登場するのですが、『ボーン・コレクター』を観ながら先ず想起したのはそれです。作品の質を云々する以前の問題として、そこにあるのは作家による「創造」ではなく、システムによる「生産」、そんな作品など今どき珍しくもないとは言え、余りにもお粗末だったような気がします。別に商業主義が悪いと言っているわけではありません。例えば、余り好ましくない色分けに「娯楽/芸術」というのがありますが、この色分けが有効なのは、あくまでも作品の「目的」の段に於いてのみ、大衆娯楽を目的としているか、芸術的思索を目的としているか、大抵の場合、それは明らかです。しかし、それが作品の質、芸術性と殆ど関係がないのは、それを決定するのが、大抵の芸術作品がそうであるように、その表現手段、方法論である故、つまり「何を語るか」ではなく、「如何に語るか」が作品の価値(の大部分)を決定するのです。所謂「娯楽映画」の類でも、その表現手段によって芸術的とされる作品もあれば、矢鱈と大仰で勿体ぶった主題の割には、その貧困な映像表現の故に、取るに足らない三流映画としか見做されないものもあります。勿論、そういった結果としての色分けにしても、結局は各人の意識、趣味という相対的価値観に依拠せざるを得ないのですが、しかし、それが商業主義的なシステムによって「生産」されたものか否かという色分けの話ならば、それが好きか嫌いかという話とは関係なく、絶対的に可能です。

 確かに、映画というのは、映像によって何かを「説明」する動作の連続であることに間違いはないのですが、しかし、その「説明」が余りにも単純明快では、それが「分かり易さ」を追及するための親切心に拠るものと言えども、さすがに阿房らしくなります。例えば、作品の冒頭、デンゼル・ワシントン扮する黒人捜査官の現在の特異な状況を、その原因となった過去を彼の夢を借りて説明するのなど、余りにも陳腐です。若い女性警官のやはり些か歪んで見える現在を説明する方法などさらに悲惨、彼女のデータファイルに記されたテクスト化された過去を見せるなど、もはや映像による説明すら抛棄しているとしか思えません。確かに、それは分かり易く、何一つの誤解も生じないようにこの作品の物語的状況を説明していると言えるのですが、同時にまた、そこに何一つの創造性をも発見し得ないのも事実です。映画に於ける映像は、決して物語を補完、説明するためにのみあるのではなく、それ自体が意味を有し、時として「物語」という紛れもない言語活動との間にある種の緊張状態をも生み出す能動性を有するからこそのものだと思うのですが、しかし、そこにあるのは、あくまでも「物語」に従属した、しかも方法としても極めて凡庸な映像の連続、つまり、そこには「何もない」ということです。

 知的にして有能、しかし、予めそれぞれに状況的ハンデキャップを背負った肌の色を異にした男女が、異常者による猟奇的連続殺人事件の捜査を通じてそれを克服、成長していくという退屈極まりない、もはや類型化されたメロドラマを恥ずかしげもなく「生産」するのは、他でもないハリウッド式商業主義のシステム、それが「現在」と見做されているのなら、それが「何もない」映像であることも含めて、我々「消費者」も随分と馬鹿にされたものだと思わざる得ません。それこそが「娯楽映画」だと言うのもやはり少し違っていて、何らか言えるとすれば、精々「娯楽」と「大量消費」を目的とした作品ということだけです。勿論、その目的が果たされるのか否かはあくまでも「消費者」に関わる問題ですから、私個人としては何とも言えないのかも知れませんが、牛乳が水道水で薄められていたり、ササニシキにタイ米が混ざっていたり、その程度の見分けがつく「消費活動」であって欲しいと願わずにはいられません。

 仮に1日に映画を3本観たとして、1カ月で90本、1年で1000本にも足らないという事実は、やはり「不幸」としか言い様がありません。私の場合、現状では劇場とテレビ、ビデオを合わせても1カ月に50本が精々、映画とは全く縁のない「生活」に日々追われているわけですから、それも致し方のないところです。従って、その限られた状況の中で体験としての満足を得るためにどうしても必要になるのが観る作品を「選ぶ」という作業であるのは、今さら言うまでもないことです。「観なくても分かる」という言い草は如何にも傲慢不遜だと思うのですが、しかし、やはりそんな映画は存在します。最近このようなサイトを始めたこともあって、そのような態度を少し改めてみたのですが、その結果、益々その意を強くしたのですから、これはどうしようもありません。件のシステムによって「生産」されている作品群などもそれ、私に関して言えば、それらから何かを発見する可能性は極めて薄いと言わざるを得ません。何度も繰り返すようですが、それと「娯楽映画」は決して同義ではありません。私は「映画」に対して、高邁な言語活動など何一つ望んではいないのです。

 1000以上もある座席が、まあ、それなりに埋まっていました。正午過ぎまで蒲団の中にいましたから、さすがに眠くはならかったのですが、途中、かなり退屈しました。映画館に入る前に喫茶店でテレビ観戦した皐月賞のことなど時々思い出したり、それでいてしかし何一つ見失わずに済むというのが、ハリウッド式の巧妙なところ、観客に余り多くを期待していないということなのでしょう。それにしても、上映中、彼方此方で20回は携帯電話が鳴っていたような気がします。しかし、それすらも大して気に障らないのがまたハリウッド式たる所以、家電製品でも何でも、精度の高い優秀なシステムとは得てしてそういうもの、それを使う人間の「程度」は問わないのです。


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