Index

 
ロゼッタ
監督:L&J=P ダルデンヌ
2000年4月23日(ル・シネマ1)

 偏愛的視線の創造



 エンド・クレジットが流れ出すと、何となく異様な雰囲気に。それもそのはず、通常そこに在るとされている「音楽」が全く無く、突如として無音状態に突入してしまったのです。それにも関わらず、クレジットだけは音楽がある場合と同様、スクリーンの下から上へと滑らかに、やはり音楽がある場合と同様の速度で流れているのですから、余計奇妙な具合なのです。普段クレジットを無視して席を立つ人も、あるいはそうでない人も、どう振る舞うべきかと一瞬躊躇してしまったことが、その異様な雰囲気をもたらした原因に違いありません。勿論、私もその一人、「いいなぁ」とか思いながら、音もなく流れるクレジットをボンヤリと眺めていました。(尚、私の記憶に間違いがなければ、この作品には最初から最後まで一切のBGMはありませんでした。但し、余りにも愉快な「例外」が一度だけ)

 映画をより現実的なものに見せる手段の一つは、スクリーン上から「カメラの気配」を消すことにあります。例えば、位置の固定されたロングショットはより傍観者的、客観的視線と認識され、ある種の「現実性」をそこに捏造します。それはカメラの位置を観客の視点に合わせることによって「カメラの気配」をスクリーン上から消滅させている故、カメラではなく、自身の目で直接目撃していると観客は錯覚するのです。それとは逆に、ハンディーカムによる移動撮影やズームを使用しないクロースアップ、つまりカメラと被写体との距離が近く、被写体の動きにカメラが敏感に反応するような撮り方は、本来あるはずもない視線の主体、カメラの存在を観客に否応なく意識させてしまい、余り現実的なものには見えてきません。例外があるとすれば、カメラの存在を観客や被写体が予め了解しているような場合、ドキュメンタリー映画の類などそうですし、結果はともかくとして、意図としてはそのつもりだったはずの『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』も、むしろ観客にカメラの存在を予め意識させることによって、より現実的であることを目指した作品だったと言えるのでしょう。従って、「カメラの気配」をスクリーン上に残しながら、しかし、より現実的な(もっともらしい)物語をそこに映そうとするのは本来かなり無理のある動作、『ロゼッタ』とはそういう作品です。それが「ドキュメンタリー風」を意図したものならば別段問題もないのですが、しかし、『ロゼッタ』は決してそうではありませんし、また、現実性(もっともらしさ)を予め抛棄しているわけでもありません。むしろ現実性の追及が試みられている作品、大いに矛盾しているのです。
 そのカメラのスタンスが決して白々さ(そこに居るにも関わらず、居ないふりをしているという)を感じさせないのは、それが一見不躾極まりない動作で被写体に迫っているようで、しかし、案外その「節度」が守られているからに他なりません。例えば、作品の冒頭、何処かへ急ぐロゼッタの背中をカメラが執拗に追い掛け回すのですが、しかし、彼女が乱暴にドアを閉める度に一旦ショットが切れて、次のショットでまた改めてロゼッタを追い掛け直すという、そんなことが何度か繰り返されています。つまり、カメラが自発的にドアを開いたり、また、そういう場合の「演出」の常とされているように、ロゼッタがドアを大きく開いたまま先へ進む(カメラが付いて来れるように)ということをしていないのです。また、ロゼッタが自動車の通りの激しい道路を横切る場面が何度が出てくるのですが、それまではやはり彼女の背中を追い掛けていたカメラが諦めたように道路の手前で立ち止まってしまいます。そのような場面は他にも幾つかあって、つまり、物理的な障害が生じると、カメラはそれまでの執拗さを捨てて簡単に諦めてしまうのです。このカメラのスタンスは紛れもなくドキュメンタリーのそれ、その存在を隠すための「演出」の類を否定しているのです。しかし、そうでありながらもこの作品が決してドキュメンタリー風(の虚構)であること容認していないのは、被写体であるロゼッタが決してカメラと視線を合わせないどころか、その存在を完全に無視した、つまり「普通」の動作しかしていないことを以て明確に示されています。また、ドキュメンタリーと言わず、ある種の映画に於いては、被写体が意図的にカメラと視線を合わせることによって「異化効果」を生み出そうとするのですが、それとは正反対であるロゼッタの拒絶は、当然ながら「同化」を意図したもの、カメラ自身という、映画的に明らかな「異化」の装置をそこに意識させておきながら、です。
 ドキュメンタリー的なカメラと、あくまでも物語的な被写体、これら矛盾した二者が生み出す奇妙な緊張状態こそが、この作品の特質と言えるのかも知れません。あるいは「解釈」の一つとして、ロゼッタはカメラの存在に気付いていながら敢えて無視している、そんな「演出」であるとすることもまた可能なのかも知れません。カメラを無視する理由は物語的に明らか、彼女にはカメラを相手にしている「余裕」など何処にもないのです。何れにせよ、敢えて矛盾を生起させるその実験的とも言える手法が、物語的緊張を増幅させているのは間違いのないところ、つまり「成功」しているのです。

 カメラが執拗に主人公だけを追い掛けていると、当然ながら物語的、状況的「説明」が不足してしまいます。この作品の場合、カメラは必要最低限、どうしても必要な場合にのみ、ロゼッタから視線を逸らし、渋々状況説明を始めます。それは決して「意味」を拡散させるための動作ではなく、むしろそれで十分に足りてしまう程度の「意味」しか予めそこに与えられていない故にこそ可能な動作、あるいは本末転倒にも思われるかも知れませんが、視線をなるべくロゼッタから離さなくても済むよう意図的に「物語」を簡素化にした、そんなふうにも感じられます。「偏愛的視線」の創造こそが、この作品に於いては第一義、「物語」や「説明」など、然して重要でもないのです。面白いのは、カメラが視線を逸らすタイミング、例えば、ロゼッタがワッフルを売る場面、やはりカメラは彼女の表情のみを執拗に追い掛けているのですが、彼女が途中から伏目がちになってしまう理由をそのカットの最後の最後で漸くカメラをパンすることによって「説明」するのですが(実際には、その「説明」がなくても、大抵の観客はその理由を正しく推測することができます)、それは漫画の「オチ」のようでもあり、そんな動作をするカメラには「愛嬌」をすら感じてしまいます。
 また、この物語の結論が「メロドラマ的」であることを回避し得たのは、それが「観念的」だからではありません。その結論の場面に於いて、それまでのようにカメラの手を煩わせるのではなく、ロゼッタ自身がその自発性によって「オチ」を説明している、もはやカメラを必要としない彼女の状況の変化を、カメラがその最後の仕事として見事に捉えられているからに他なりません。カメラの運動が停止すれば映画も終わる、それは至極当たり前なことなのですが、しかし、その「同時性」をここまで明瞭に認識させてくれる映画は滅多にありません。実に「映画的」な映画です。

 これは『菊次郎の夏』や『ストレイト・ストーリー』もエントリーした、昨年のカンヌ映画祭コンペティション部門で見事パルムドール賞に輝いた作品でもあります。その結果に関しては、例年のことながら、プレスによる「前評判」を大きく裏切るものであった故に、何かと話題にもなりました(授賞式でフテくされるソフィー・マルソーの姿が特に印象に残っています)。すべてのエントリー作品を観たわけでもありませんが、「有力」とされた幾つかの作品と『ロゼッタ』を観た限りに於いては、個人的には、審査員の選択もそんなに悪くなかったのではないかと、やはりこういう作品を選んでこその「映画祭」ではなかろうかと、改めて思うに至りました。万人の期待を裏切らない審査結果など、審査員の自己否定にしか繋がりませんし。

 公開が始まってから既に何週も過ぎている割には意外と席が埋まっていたのですが、劇場の規模が小さいことを考えれば、然して驚く現象でもありません。むしろ、パルムドールの「看板」がありながら、この程度の規模でしか配給されなかったことにこそ驚くべきなのかも知れません。万人受けする類の作品ではありませんから、その「看板」であざとい商売をしなかった配給元の「誠実さ」を褒めるべきでしょうか。
 私の一つ前に座っていた男性、上映が始まる直前まで「ザウルス」をピコピコと、「4月23日、ロゼッタ」とか入力していました。上映中も何やら弄っていたようなので、あるいは作品の感想でもメモしていたのかも知れません。また、私の二つ後ろに座っていた女性二人組は、劇場が明るくなってから「途中までずっと30点の映画だと思っていたけど、最後の30秒で75点にアップしたわネ」とかナンとか、早々にも「評論活動」を開始していました。先週の『ボーン・コレクター』のように携帯電話の電源も切らないようなのがウヨウヨいる映画もどうかと思いますが、今回のようなのも何となく妙な感じ、観客の二極化傾向は益々加速しているようです。


Index