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『催眠』と『富江』
2000年4月27日(雑記)

 和製ホラー映画、雑感



 宇津井健がもし「左利き」として有名な俳優ならば、私の書くことは全くの筋違いということになってしまうのですが、差し当たってはそうでないことを願いつつ、話を先に進めていくことにしましょう。私が問題としてしいるのは、『催眠』の中で宇津井健扮する刑事が拳銃自殺をする場面、彼は左手で拳銃を持ち、左のこめかみを撃ち抜くのです。些末なことに拘っていると思うなかれ、彼が左手で箸を持とうが、左足でサッカーボールを蹴ろうが、そんなことは別にどうでも良いのです。しかし、事は「自殺」に関わる話、そんな重大な動作に於いて利き腕を遊ばせているなど余りにも不自然、しかも、それが「演出」によるものと推測し得るだけに、ますます不可解なのです。
 場面の詳細な説明は割愛しますが、彼が左手で拳銃を構えていた理由は唯一つ、こめかみに拳銃を押し当てたまま突っ立っている彼の姿を右真横から見た場合に、それを分からなくするため、異様な雰囲気を漂わせながらも「ただ突っ立っているだけ」というふうに見せたかったからです。誰にそう錯覚させたかったのかと言えば、稲垣吾郎扮する心理学者と我々観客にです。その「演出」のせいで、哀れな刑事は慣れない左手で自身のこめかみを撃ち抜くハメに、恨むべきは「催眠術」ではなく、むしろそのマヌケな「演出」ではないでしょうか。
 確かに、その「演出」自体はそんなに悪いとも思いません。状況説明の手段としてもなかなか面白いと思うのですが、しかし、その代償として左手で拳銃を構えさせてしまうのはさて、それを大した問題でもないと考えてのことなら、少し「感覚」が鈍い監督なのかも知れません。そもそも、この問題を解決するのなど至極簡単、宇津井健を(反対側の通路で)反対向きに立たせればそれで済むこと、しかし、それすらも試みなかったということは、つまり、自殺者がどちらの手で拳銃を構えるかなど、この監督は然して問題にもしていなかったということ、その「鈍さ」はもはや絶望的です。
 さらに悪いことに、その場面自体がアルフレッド・ヒチコック監督の『知りすぎていた男』からの引用、「オマージュ」のつもりがとんでもない「お饅頭」では洒落にもなりません。

 物語的に「無意味」な存在はともかくとしても、映画的に「無意味」な存在は、ただひたすらに「無意味」なだけです。『富江』に登場する田口トモロヲ扮する刑事がそれ、映画的存在として明らかな機能不全に陥っています。物語を裏切る人格というのは然して珍しくもありません。俗にいう「浮いている」というやつ、場合によっては、物語的、状況的整合性が大いに欠落していたりもするのですが、しかし、そのような存在であっても映画的存在として十分に機能を果たしていさえすれば、決して「無意味」となったりはしないものです。黒沢清監督の近作に登場するような、物語的にはどう考えても支離滅裂な人格などそれ、彼らは物語を混乱させることはあっても、しかし、それを含めた大枠としての「映画」に於いては、その役割を十全に果たし、むしろその整合性を支えているとさえ言えます。それを中途半端に、表層だけを模倣した悪い結果が『富江』のそれ、映画的に何一つ機能しない、ただ「浮いている」だけの存在をスクリーンに登場させてしまったのです。
 この監督は多分、三度のメシよりも映画が好きで沢山の作品を観て色々と研究している人(当たり前の話ですが)に違いなく、作品の随所にそのテの「模倣」を確認することができます(階段での「ロングショット/長回し」とか)。しかし、それらが何一つ正常に「機能」していないのが残念なところ、エンジンを停止させて一時的に停車している自動車と、壊れて動かなくなった自動車、「止まっている」という状況や、表層としての「状態」は同じでも、その本質はまるで違っています。「止まっている」という状況のみを借りてきても、「何故止まっているのか?」という理由を知らない人には、一生涯それを動かすことなどできないのです。

 最近流行っているらしい「和製ホラー映画」というのを、私自身、そんなに観ているわけでもありませんから、余りいい加減なことも書けないのですが、先日WOWOWで立て続けに観たこれら二作品に関しては、良く悪くも、黒沢清監督の『CURE』の影響下にあるとの印象を受けました。『催眠』は物語的に明らかにそうですし、『富江』は既述の表層的な意味不明さや、あの不快な「低音」などマサにそうではないでしょうか。残念なことに、その何れもが失敗に終わっているのは、「二番煎じ」の常道というより、やはり監督の才能の問題、そんなことを言っては身も蓋もないような気もしますが、左手に拳銃を持たせてしまうのでは私としても弁護のしようがありません。そもそも「ホラー映画」を称しながら、しかし、少しも怖くないという、作品の存在意義にも関わる重大な問題を如何に理解すべきか、それが私の「感性」にのみ依拠する問題であるならば、もはや憂うことなど何一つないと楽観的でもいられるのですが。


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