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アメリカン・ビューティー
監督:サム・メンデス
2000年4月29日(新宿ピカデリー1)

 傍流に委ねられた結論



 一般に「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれている幾つかの作品に登場する二人組みの主人公、ブッチとサンダンス、ボニーとクライド、ビリーとキャプテン・アメリカ、彼らに共通しているのは、その何れもが作品の最後で凄惨な死を遂げることです。彼らが不幸にも身体に浴びてしまった銃弾の数を多い順に並べると、丁度今並べた通り、ブッチとサンダンスなど一体何発の銃弾を浴びてしまったのか、数えるのすら億劫になります。仮に、彼らに表徴されていたものが70年代的「自由」だったとして、彼らに銃弾を浴びせたのは間違いなくその「自由」を恐れる何か、「体制」とか「反動」とか、些か退屈な語彙を借りれば、そんなところに違いありません。その至極単純な二元論を提示したそれぞれの監督は、間違いなく「自由」の側にあるつもりでそんな物語を捏造したに相違なく、私が「銃弾の数」を取り立てて問題視するのは、それが彼らの「自由」に対する「思い込み」の程度に比例しているようにも思われる故のことです。この場合の「銃弾の数」とは即ちその「自由」を奪うために必要とされた「労働量」に同義、それが多ければ多いほど監督の「思い込み」もまた大きかった理解することができます。そう考えてみると、たった一発の銃弾で実にあっけなくその「自由」を奪われてしまった『イージー・ライダー』の二人に与えられていたのはそれに見合う程度のものでしかなかったということ、彼らのLSD体験が執拗に描写されるのも、彼らが獲得したつもりでいた「自由」の本質を知らしめるため、監督でもあったデニス・ホッパーは意外と「冷静」だったということになります。その意味では、明らかに致死量を越えた数の銃弾を浴びせずにはいられなかった残り二作品の監督がその主人公に背負わせていたものは、もはや一個人の身体を遥かに超越したある種の「幻想」に他ならず、それが時代の雰囲気に流されてのものならば、些か冷静さを欠いた動作だったと言えるのかも知れません。それらが単なる「同時代的メロドラマ」でしかない所以とも言えます。

 主人公、もしくはそれに類する人物の「死」を以て収束に至る物語など然して珍しくもありません。しかし、それらには大きく分けて二つ、物語の必然として死を受け容れざるを得ない場合と、必ずしもそうではない場合があります。古典的に定義される「悲劇」とはおよそ前者、それなくしては物語が完結しないのですから、ある意味では「物語に殺される」とも言えるのかも知れません。『アメリカン・ビューティー』に於けるそれは、明らかに後者、勿論、物語的に配置された「死」であることに変わりはないのですが、しかし、誰しもが感じるであろう「違和感」は、それが物語的でない何よりの証左、彼の運命を左右する力学はもっと別のところにあるように思われます。
 そもそも、予め宣言されるその「死」を無視してしまうと、「中流家庭の崩壊」を描いたはずのこの作品が、実はどれほども不幸な物語でなくなってしまうのです。社会の基本単位と信じられてきた「家族」が解体され「個人」に、そうなることが必ずしも不幸ではない、実際、その「死」の直前までの物語が示しているのはそういうことではないでしょうか。そして「中流家庭の欺瞞を暴く」という宣伝文句がさらに追い打ちをかけます。それは、もはやその「欺瞞」なくしては成立し得ないのが「中流家庭」、そう宣言しているにも等しいのです。もし、その「死」がもっと物語的にもたらされる、つまりその崩壊の帰結すべき場所として用意されていたのならば、あるいは教条主義的なお気楽さを獲得するにも至ったのかも知れないのですが、しかし、そうでないのは既述の通り、物語的には何一つ問題は解決されないのです。

 所謂「家族」という単位が疑われたのなど、これが初めてのことではありません。マルクス然り、坂口安吾然り、そして奇しくもこの主人公が回帰した時代、ニューシネマがそれに同調した時代に於いて真先に疑われたのも、やはり「家族」でした。キャプテン・アメリカとビリーは何故凶弾に倒れてしまったのでしょう。彼らの獲得したものを「幻覚」とせざるを得なかった力学もまた物語の外に、有り体に言えば、やはり「自由」を恐れる何者かの仕業、一体誰が反動なのか、それを詮索することに然して意味があるとも思えませんが、しかし、その類と折合いを付ける必要があったのは確か、物語を完結させるためというより、映画を成立させるために、残念ながら、彼らには死んでもらうしかなかったのです。
 尤も、外部的な何らかと折合いを付けるという意味では、『俺たちに明日はない』等に於ける「メロドラマ的な死」もまた同様の機能を有していると言えます。しかし、決定的に違っているのはそれを与える人間の態度、「物語的な死」を拒絶する人間はあくまでも物分かりが悪く、その「収まりの良さ」に決して満足したりはしません。『イージー・ライダー』に於いては、それが「幻覚」に過ぎない可能性を示唆し、懐疑的な姿勢を示しながらも、しかし、最後まで頑なに態度が留保されています。メロドラマの方は言わずもがな、煩わしいほどの「思い込み」を押し付けておきながらも、しかし、物語の段階で既にそれを売り渡しているのです。

 さて、『アメリカン・ビューティー』に於ける「死」を物語的な側面からみれば、「中流家庭崩壊の物語」とはまた別の物語によって与えられていることが分かります。そこに発見し得るのは、ニューシネマのそれと同様の二元論に他なりません。主人公がニューシネマの時代に回帰してしまったのですから、その「決着の付け方」もある意味では非常に理に適っていると言えるのかも知れません。そして、何よりも賞賛すべきは、映画的結論を敢えて傍流に委ね、主流であるはずの「中流家庭崩壊の物語」に対する態度はあくまでも留保されているということです。否定も肯定もせず、そして、そのような態度を好ましく思わないであろう人種(を表徴した存在)の力を借りて、見事に「映画」を終わらせてしまったところが、何よりもの辛辣さであると言えます。オスカーも捨てたものではありません。

 演劇出身の監督の割には「演劇的ではない、それ故にこそ成功した」とも評されていますが、死者によるモノローグにせよ、登場人物のあくまでも「身振り的」な演技にせよ、むしろ映画と極めて親和性の高い類の演劇的手法を駆使した作品と評する方が正確であるようにも思われます。従って、そこに安易な共感がなかったり、監督の視線が冷徹に感じられるのも道理、それ自体然して驚くことでもないわけで、監督の国籍にその答えを見出そうなど、的外れとしか言い様がありません。

 些か煩わしいとも感じられたのは、監督の「観客を退屈させない工夫を凝らした」との発言にも呼応するのであろう、予め宣言されている映画的結論に至るまでの意図的な「はぐらかし」です。崩壊家庭に残された最後の「自浄作用」を観客に期待させ続けたという意味では、結局はそれをも裏切るわけですから、これほどの意地悪もないと言えるのかも知れませんが、少しサービスが過ぎたようにも思われました。

 走査線の粗いビデオ映像の部分的な使用は実に効果的でした。個人的にはボブ・ディランの有名な曲の歌詞など想起した「ゴミ袋の映像」は、ビデオならではの「空疎さ」と言うか、フィルム映像に伴う「質感」が上手く排除されていたように思われます。

 やはり「オスカー」の威力でしょうか、殆どの席が埋まっていました。何よりも驚いたのは、いつもは不自然な「空洞」を形成している指定席ですら、その殆どが埋まっていたということ、実際のところ「オスカー」の「権威」がどの程度のものなのかなど私の知るところではありませんが、少なくとも商業主義のシステムとして十全にその機能を果たしていることだけはよく理解できました。


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