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イグジステンズ
監督:デビッド・クローネンバーグ
2000年4月30日(新宿ジョイシネマ2)

 現実存在に対する嘔吐感



 実存は本質に先んずる、J=P・サルトルの示した「実存主義」の基本理念です。この場合の「実存」とは、現実存在としての人間を意味し、「本質」とは文字通り「人間とは××である」と言った類の概念、これら二者の後先が非常に重要となるわけです。サルトルが実際に使った「喩え」で説明すると、ペーパーナイフのような「物」は、その用途や形状といった「本質」が予め明確に決まっており、ペーパーナイフ職人はその「本質」を先ず想起し、それを忠実に再現することが即ちペーパーナイフという「実存」を生み出すということ、逆に言えば、予め決まったその「本質」がなければ「実存」もあり得ないということです。しかし、人間の場合は、何らの「本質」をも伴わない「実存」として先ずこの世の中に抛り投げられ、その「本質」はあくまでも各々の行動、意志によって自ら決定していくものであると、つまり、人間は本来何ものにもなり得る「自由」な存在であるということです。このような発想をするサルトルは当然ながら無神論者、創造主の不在を前提とするからこそ「実存」と「本質」の逆転もあり得るわけです。
 サルトルが言うように人間が本来的に「自由」な存在であるならば、これほど有り難い話もないと思われるかも知れませんが、しかし、ここで言うそれは余りにも広大無辺である故に、むしろ人間に苦痛をもたらすもの、「人間として如何にあるべきか」といった類のことをすべて各個人が決定しなくてはならないのですからそれも道理、サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と表する所以です。また、あらゆる「自己投企」に付随する「責任」についても実に大仰なことを、サルトルに言わせれば、それは「全人類に対する責任」を伴うとのこと、誰しもがそんな「自由」など欲しくないと思うに違いありません。サルトルの思う壷です。何れにせよ、サルトルの理屈では「野生の思考」など何一つ了解できないとか、人間の本質を決定するのはあくまでも「社会的コンテクスト」であるとか、そんなこんなでサルトルの「実存主義」も一巻の終わり、今どきそれを「古典」として有り難がる人も殆どいないというのが実情でしょう。
 それはともかくとして、このサルトル的な発想をサイエンス・フィクションの場面に持ち込んでみると意外と面白いのではないか、と、個人的に常々そんなことを考えていました。本来の「実存主義」からは多少逸脱してしまうのかも知れませんが、例えば、人間の実存をある種の「容物」に見立てて、珈琲にするか紅茶にするか、そんな具合にその「本質」をアレコレ取り換えて云々と、そんな物語が面白いかどうかは分かりませんが、しかし、およそ人間を扱った「物語」など、作家なり「社会」なりが、人間の「本質」を予め措定した上で、そこから逸脱したり修正されたり、葛藤があったり運命があったり、所詮はその程度のものに過ぎないわけですから、人間が本来的に何ものでもあり得るという些か奇抜なお話に悪乗りするのも、一つの発想と言えるのではないでしょうか。

 さて、この作品の表題から先ずサルトルの「実存主義」を想起したのは、単に私の個人的事情に過ぎないのですが、しかし、パンフレットを参照したところ、どうやらクローネンバーグ監督は実際にもそれを念頭にこの作品を撮ったそうで、それは主演の俳優二人に予め『存在と無』を読ませ、「実存主義」の何たるかを理解するよう申し渡すほどの徹底ぶりだったようです。そう考えてみると、この物語が決して在り来たりな「警鐘」の類などではないことが分かります。サルトルは「想像」を「対象を無として措定する」意識作用の一種としており、その意識作用が実存を「無化」し得る可能性をして、人間を超越論的に「自由」な存在ともしています。つまり、その「自由」を以てすれば「現実」と「虚構」の差異などどれ程のものでもなく、サルトルの言葉を借りれば「対象が意識に現れる仕方」の違いでしかないということにもなってしまうわけです。感覚器官による一般的な知覚と脊髄に直接何らかの情報を流し込むことによるある種の知覚、多少意味合いは違ってくるのかも知れませんが、この作品に於けるそれらも、人間が「即自存在」としての実存から「自由」であることを前提とすれば、結局は「対象が意識に現れる仕方」の違いでしかないということになるわけです。「現実」と「虚構」が等価ならば、ある一方を優位と見做す故に認められる「錯覚」も起こり得ず、従って、在り来たりな「警鐘」の類が無効となってしまうのは言うまでもないことです。あるとすれば、その「自由」の故に、人間は宿命的に仮想現実に侵食され易い存在であると示唆、仮想現実に侵食されてしまう人生を不幸と感じるのならば、少なからずの危機感を抱いて現状認識をせよ、と、おそらくはそんなところなのでしょう。

 意識に対象化されない実存そのものを目撃して生理的吐き気を覚えたのは『嘔吐』のロカンタン、クローネンバーグ監督がサルトルの影響下にあるとすると、この作品に限ったわけでもない、あのクローネンバーグ的な「装置」の存在理由も何となく了解できるような気がします。端的に言えば、あのグロテスクな「装置」を生み出すのは他でもない『嘔吐』の視点、現実存在(イグジステンズ)に対するサルトル同様の生理的拒絶感が、必ずしもそうではない(一般的な)人間にむしろ吐き気を覚えさせるグロテスクな「装置」への変換を促しているに違いありません。絶対的に無意味な世界からの逸脱、些か大仰かも知れませんが、クローネンバーグ監督独特のあの舞台装置には、そのような意味が込められているのかも知れません。

 公開二日目の日曜日でしたが、残念ながら、漸く全体の半分の席が埋まっていた程度でした。しかも、その大半が「SFマニア」か「クローネンバーグ・マニア」といった感じの冴えない若者、特別に宣伝されている作品でもありませんし、それも致し方のないところでしょうか。そう言えば、如何にもテレビゲームが好きそうな小学生くらいの兄弟を連れた場違いな家族連れもいたのですが、単に「近未来のゲームが云々」という謳い文句に騙されてのことならば、帰宅後の食卓は随分と気まずいものになったと想像されます。あるいは「お父さん、あのバイオポートはアナル・セックスのメタファーなんだよネ!」とか、そんな家族団欒があっても別に驚きはしませんが。


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