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オール・アバウト・マイ・マザー
監督:ペドロ・アルモドバル
2000年5月4日(シネセゾン渋谷)

 その獲得された能動性



 人類がセックスと妊娠の因果関係を発見する以前に於いては、当然ながら「父親」という概念は存在しませんでした。生物学的に「父性」などというものが認められているのかどうか、実のところよく知らないのですが、近所の公園でゴロゴロと寝転がっている猫にすら発見し得る「母性」と比べると、何となく胡散臭い感じ、人類が如何にしてその因果関係を発見するに至ったのかは知る由もありませんが、「父性」というものが、あくまでもその結果として発生したに過ぎないのならば、生物学的というより、むしろ社会学的現象とでもすべきものなのかも知れません。極めて制度的な、ある種の「役割」に付随した性質とでも言うべきか、その制度を前提としなければ然して重要でないもの、そんな程度のもののような気もします。従って、男性に与えられた役割は「種の保存」ではなく「制度の維持」、およそ「制度」とは無縁の荒唐無稽な物語が「父性不在」のママ、何一つの潤滑さを失わないのも頷ける話です。

 例えば「運動会で走ったら1着になった」というような場合、「1着になった」という事実をしてその「結果」とするならば、その「原因」はしかし「走った」ということにあるのでは決してありません。勿論、何よりも先ず走らなければ1着になどなれないわけですから、それも確かに「原因」の一つと言えるのかも知れませんが、しかし、この場合は決勝線を跨いだ順番が問題とされているわけですから、それだけでは何の説明にもなっていないのです。従って、この場合の「原因」は、例えば「ドーピングしたら」とか「前の晩にトンカツを喰べたら」と言った類、その意味では上記の文章自体がおよそ不完全なものであるとも言えます。
 物語の場合、原因と結果の関係が余りにも上出来過ぎると「御都合主義的」などとも評されてしまいます。上の話で言えば、「トンカツを喰べた」から「1着になった」という物語などマサにそう、決して了解不能な因果関係ではないにしても、大抵の人が「そんなに上手くいくはずがない」と思うに違いありません。尤も、所詮は虚構に過ぎない物語に於いては、如何に「御都合主義的」であろうとも別に構わないわけで、程度の差異こそあれ、大抵の物語は少なからず「御都合主義的」、むしろそうであり得ることこそが物語の特権なのですから、それを恥じる必要など何処にもないとも言えます。あるとすれば、それを如何に誤魔化し、読者、あるいは観客に尤もらしいと感じさせるか、作家の技術が問われる場面の一つと言って間違いはありません。

 この作品もまた極めて御都合主義的なメロドラマと評されているのですが、しかし、それは必ずしも当を得た評とは言えません。何故なら、そこには明確な因果関係など何一つ説明されておらず、至って楽観主義的な結果が示されるに止まっているからです。つまりは「運動会で走ったら1着になった」というそれ、どうしても因果関係に拘りたいのならば、そこに示されている「走った」という事実を唯一の原因として了解するしかなく、そうなるともはや「御都合主義的」などと評するような生易しいものでもなくなってしまいます。およそ物語は破綻しているのです。
 そもそもの因果関係など度外視して、むしろ「走っている」という「動作の過程」をスクリーンの中心に捉える手法は決して珍しくありません。しかし、この作品の場合は、サディスティックにも、その「動作の過程」すらザクザクと端折って、やはり「結果」のみを並べていきます。一体何処に「物語」があるのか、と疑っていると、何喰わぬ顔で劇中劇が紛れ込んできたり、何とも不思議な作品です。

 さて、「運動会で走ったら1着になった」という小学生の作文が何故これほどまでに素晴らしいのか、それが「運動会」ではなく、もっと切実な「人生」の一場面だからなのでは決してありません。もし仮に、そこに「原因」が明示されていたならば、それこそ単なる御都合主義的なメロドラマになってしまいます。また、「動作の過程」を中心としてしまうと、対象が対象だけに、どうしても「努力は報われる」といった類の安っぽさが付き纏ってしまいます。つまり、それが「よくできた物語」ならば、そこに在る存在は、ただ単に予定調和的な結論に流されていくのみ、如何に大仰な身振りを示したところで、その説話論的磁力の強さ故に(つまり、余りにも御都合主義的である故に)、そこに何らの能動性をも発揮し得ないのです。
 速過ぎる川の流れに流されるがママになることを不本意と思うなら、川の流れを止めるより他はありません。では、首尾良く川の流れを止めたとして、しかし、それが流れてるのと同様の速度で流れる「必要」だけが残されたらどうすべきか。その場合は、そこに在る存在がその流れと同じ速度で泳ぐしかありません。この破綻した物語がある種の「力強さ」を獲得し得たのは、つまりはそういうこと、原因や過程を意図的に端折って、つまり物語的な流れを敢えて断絶させておきながら、しかし、極めて楽観主義的な結果、流れ着くべき目的地だけをそこに示したとするならば、そこに在る存在はもはや自らが動き出すより他はないのです。あるいは、「走った」から「1着になった」という些か荒唐無稽な物語を了解するには、その動作の主体に、然るべき原因になど拠らない、ある種の「力強さ」を発見せざるを得なくなる、「走る」という動作それ自体を全肯定的に受け容れざるを得なくする、そこに在る女性達、あるいは映画それ自体が、無類の「力強さ」を以て観客を捉える所以です。本来流れるべきを止めて流されるべきを動かす、否、むしろ「動いた」とでもすべきでしょうか。その獲得された能動性こそが「演じる」ということ、そんな試みが成功し得たのも、やはりそれが「女性」だったからなのかも知れません。

 物語を意図的に破綻させたり、およそ現実離れした「結果」をそこに示し得たのは、この監督が何よりも映画の「虚構性」を了解していたからに違いありません。しかし、それは「所詮は虚構に過ぎない」といった類の悲観主義ではなく、この作品の前半部分でも示唆されていた「現実は虚構を再現する」という恐るべき楽観主義、そうでもなければこんな作品は撮れないはずです。

 ゴダールの『軽蔑』を想起させる極めて人工的な「赤」と「青」、それらもまたこの作品の予め了解された「虚構性」を強く印象付けるものでした。尤も、ゴダールの場合はそれらに「白」が加わって「トリコロール」が完成するのですが、しかし、この作品では本来「白」であるべき部分が何やらゴタゴタしたスペイン調(?)の模様で埋め尽くされており、私の「視覚」としてはもはや飽和状態、個人的には多少不満が残りました。あるいは「博愛」の不在を象徴しているということでしょうか。また、カメラが何気なく「海」にパンするショットが何度かあったように記憶しているのですが、それもやはり『軽蔑』を想起させるものでした。多分、実際には何の関係もないと思います。

 時間の経過や空間の移動が、作品中何度か反復される「トンネル」のイメイジを以て表徴されていたのに対して、唯一度スクリーンに広がった、やはり空間の移動を示唆するバルセロナ市街地の美しい空撮映像は、しかし随分と「異質」な感じでもありました。「虚構」の中に突如現れた「現実」とでも表現すべきか、物語的な意味に於ける「転換」を示唆していたのならば、その「異質さ」は十分に効果的だったと思います。

 そこで「語られていること」を当たり前のように重要視した類の映画評論に於いて「語られていること」になど、何一つ思い当たるフシがありませんでした。もし仮に、私が何かに感動したとすれば、武田泰淳の文体を想起させる、むしろ至って「男性的」なその語り口、残念ながら、それだけです。心臓病でしょうか?

 別に「おすぎ」が絶賛したからでもないのでしょうが、ゴールデンウイーク真只中の渋谷の単館上映は混雑を極めていました。尤も、そのような状況は何となく予想できていたので、午前10時20分から始まる第1回目の1時間前、午前9時30分には劇場に入場したのですが、しかし、それでも既にロクな席は残っていないという惨状、最終的には立ち見というか「座り見」というか、そんなのが通路を完全に塞いでしまうという消防条例違反、火事で逃げ遅れたら、恨むべきはやはり「おすぎ」でしょうか。また、私の観た回が少し異常だったのかも知れませんが、客層の大半は中年カップル、男性の方は皆一様に眠そうな顔をしていましたから、彼らは、この際「母の総て」を知らしめてやろう目論む女性陣に無理矢理引っ張られて来たに違いありません。御愁傷様。


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