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ゴダールの映画史(1)
監督:ジャン=リュック・ゴダール
2000年5月13日(ユーロスペース2)

 光と音の芸術、その終焉



 映画とテレビ、あるいはビデオ映像の違いについて、前者がスクリーンに投射される光であるのに対して、後者はあくまでもそこに描かれた色彩であると、個人的には、何となくそんなイメイジを持っています。黒白映像の場合で言えば、スクリーンに投射されるのが光と影なら、ビデオのそれはあくまでも黒と白の色彩、後者が必ずしも状況としての暗闇を必要としないのが何よりの証左とも言えます。映画館に於けるフィルム体験を換言すれば、その光によって生成された不可逆運動を目撃することに他ならず、その「儚さ」こそが、それがある一定の時間枠に閉じ込められた、あくまでも「体験」に過ぎないものであることを約束しているのです。あるいは、次の瞬間には「既に無い」ものを、ひたすらに記憶としてして蓄積し続けるというおよそ無意味な作業、それを以て快楽とするのならば、些か病的な性質をも含んでいるのかも知れません。確かに、ブラウン管に描かれるものであっても、その不可逆性に付随する「儚さ」に何ら変わりはないとも言えるのかも知れませんが、例えば、その残像は、一方が光の記憶であるのに対して、一方は画面それ自体の記憶、些か誇張して言えば、受像器のフレームと共に記憶されるある種「即物的」なものであり、そういったことがあくまでも体験者の感覚に依拠するものであるにせよ、その「体験」の差異は、しかし、明らかであるように思われます。
 それがビデオともなると、その体験の質はさらに違ったものになってきます。「巻き戻し」等の機能による可逆性の獲得、体験の反復は言わずもがな、それ自体を「所有」することすら可能になるわけですから、「作品=ソフト」の在り方もまた大きく変わってきます。旧来は、何よりもそれが「光」でしかなかった故、その所有など到底叶わなかったのですが、ブラウン管を介して描かれる「色彩」は、その所有を容易に許すものとして、予め小さな箱に収められてしまうのです。尤も、「作品=ソフト」の個人による所有など然して驚くべき事態でもなく、文学作品の類などその誕生以来、遅くとも産業革命以降に於いては、既にそれと同様の形で所有され、流通してきたわけですから、あるいは、その誕生から100年近くの時を経て「映画」も漸くそれに追い付いたと理解すべきなのかも知れず、また、エジソンの「キネト・スコープ」を引き合いに出せば、その事態は19世紀末、映画の誕生と時を同じくして既に予見されていたとも言えるわけですから、これまではむしろ些か長過ぎる「猶予期間」だったということなのかも知れません。
 何れにせよ、今更それを嘆いたところで何が変わるわけでもありませんし、今暫くは続くのであろう「光」と「色彩」の共存を、些か偏執気味であれ、「光」の側に立って、何れ来るその終焉の時を静かに見守ることにしましょう。それが「光」でしかなかった時代を知る最後の世代として、そんなことを思います。

 もう10年ぐらい前のことですが、ある文芸誌が主催する新人賞の選評に気になるものがありました。ボクサーが主人公のある作品、残念ながらその作品は落選してしまったのですが、選考委員の一人が「ボクシングの場面はなかなか迫力があるが、しかし、如何にもビデオを繰り返し見ながら書いたもののように思われる。こういったものは評価に値しない」というようなことを書いていたのです。確かに、物語作家というものは「想像」もしくは自身の「体験」にのみ依拠してテクストを構築すべき、ビデオという、万人の共有を許し、反復もまた容易な「疑似体験」を参照するのなどアンフェアだという考えはよく理解できるのですが、その作品の場合かなり露骨にそれが顕れていたにせよ、しかし、これからの時代は(否、もう10年以上前から)、少なからずの「体験」が映像と音によって保存、共有され、特定の「体験」の所有を以て特権的であろうなど殆ど叶わなくなるはず、従って、物書きや映画評論の在り方もまた、当然ながら変わっていくに違いありません。例えば、一度見たきりのボクシング中継の細部をすべて記憶し、その記憶を元にテクスト化するのは良いが、ビデオで繰り返し見ながら書くのは駄目という話なら、そこで問われるのは単に記憶力の問題、「想像」とて、所詮は「体験」に従属するもの、その「体験」の多くがおよそメディアを介した「疑似体験」に浸食されている現状に於いては、件の原理主義などもはや時代遅れと言わざるを得ないのです。それは「作家たるもの如何にあるべきか」という原則論ではなく、その「原則」の範囲内に現れるものなど、残念ながら、もはや誰の興味をも惹かないであろう、という話です。

 ビデオの出現が映画評論の在り方を変えたとすれば、それは先ず第一に、「光」を体験することなく作品を論じることが可能になったということ。尤も、それは悪い意味ばかりではなく、もはや「光」として体験できなくなった、その機会が奪われているにも等しい類の作品を別の形で体験できるようになったということでもあり、個人的にも、その恩恵は計り知れないものがあると感じています。但し、それ以外の、予め「光」として我々に与えられたものは、やはり「光」として、それすらもサボタージュする人間は、作品を論じることはできても、「映画」を論じることなどできない、そうすべきでもないとも思っています。勿論、これも旧弊な原理主義の一つ、その不自由極まりない「原則」に雁字搦めとなったところで、誰かの要求に応え得るものが現れるとは限りません。
 蓮實重彦が言うように「映画を観た」という体験が、その作品のカット割りのすべてをも記憶することを以て最良とするならば、ビデオの出現は、その「最良」を意外と容易にしたとも言えます。そんな極端なことは言わないにしても、作品のディテール、ある場面でのモンタージュなどについて論じることは容易に、曖昧な記憶にのみ頼ることなく、ビデオで繰り返しその場面を観れば、おそらくは観る度に新しい発見に出会えるに違いありません。これもまたボクシングの話と同じ、それをアンフェアと断じては、記憶力こそが求められる第一義であるとせざるを得なくもなってしまいます。ただ、しかし、映画に関して言えば、それがスクリーンに投射される「光」の不可逆運動を目撃することに他ならないとするならば、あらゆる「実体験」がそうであるように、その「一回性」が重んじられて何ら不思議はなく、映画が「光」である限りに於いては、語られるべき「体験」もまた、その不可逆性に従わなくてはならない、不当に反復された体験をアンフェアと断じることも、あるいはまだ有効と言えるのかも知れません。

 もはや「光」ですらない作品は、しかし、その限りではありません。予めビデオ作品として示された『ゴダールの映画史』もまた然りです。ある作家がビデオを選択した場合、一般に語られるのは専ら制作者側の「自由さ」(特に経済的な)についてなのですが、しかし、この場合は、およそ確信犯的に観る側の「自由さ」を念頭にその選択が為されたように思われます。つまり、体験の反復が予め許容されている、あるいは、むしろ反復を促す意味でその選択が為されたと理解できるわけです。体験の反復が豊かにするのは、既述の通り、それに付随する言語活動に他ならず、時には書架の前に立ち、時にはタイプライターを叩くという、その画面に在って紛れもない言語活動を示すゴダールは、我々にもまた豊かな言語活動を促しているのではないでしょうか。もし仮に、それがフィルムによって与えられた、つまり「一回性」の体験を前提として示されたものならば、何らかの言語活動に補完されて漸く成立し得る類の作品など、どれほどの価値があるとも思えないのですが、しかし、これは反復され所有されることを予め許した作品、それに付随したあらゆる言語活動もまた大いに許容されるべきなのです。何よりも、そこに在るのは「映画の歴史」、文学史や美術史と同様の場所に納められこそすれ、明滅する儚き「光」に委ねてしまうなど、およそ自虐的な所作でしかありません。
 もし仮に、ゴダールと同程度の映画的教養があったとしても、そこに羅列された夥しい数の「引用」の意味を真に理解することなど無理に違いありません。確かに、その意味など完全に理解できなくても、その目眩くモンタージュ、他でもないゴダールによって「選択」されたそれら引用群を体験することは、それだけで十分な快楽、ある種の「気分」に浸れることは間違いありません。また、あらゆる「光」としての映画に於いては、如何なる言語活動にも依ることなく、そこに「在るもの」のみを目撃することこそがあるべき体験であり、言語活動に補完され、言語化された「理解」より、むしろ「気分」の方が余程有意だとも思っているのですが、ここに於いて求められているのは、しかし、決して「気分」などではありません。ゴダールがビデオを「選択」したのは、そこに理解をこそ求めるが故、何よりもこれは「映画史」、彼とてそれに付随する「責任」は百も承知のはずです。そして、その理解があってこそ、この作品が「嘗て光であった映画」の誇るべき「遺産」となり得るのではないでしょうか。

 その意味に於いて、「ビデオ≠プロジェクター(投射機)」などというおよそ矛盾に満ちた装置まで引っ張り出して、この作品を劇場公開するのなど、どれほど意味のある動作とも思えません。「世界初」などと謳ってもいますが、それは「そんな愚かしいことをするのは世界にも例をみない」に同義、ゴダールの選択が「誠実さ」に因るものならば、これはおよそ「不誠実さ」の発露、「一刻も早く」というのなら、一刻も早くビデオを発売すべきなのです。勿論、「ビデオは発売できないが劇場で上映することはできる」といった類の些か複雑な制度上の問題でもあるのならば、前言を撤回するのも吝かではないのですが、しかし、そうでもなければ、そこにあるのは「商業主義」か「勘違い」、その何れかでありましょう。

 その「商業主義か勘違い」に荷担するのは他でもないこの私、尤も、今回の分に関しては、以前テレビ放映されていますから「再見」ということになるのですが、大画面に映されるあの目眩くモンタージュはやはり目が疲れました。その意味でも、やはり家庭用のテレビ画面でこそ観るべき作品であると思い至りました。公開初日、100席程度の小さな劇場の割には空席も目立つ状況、予想していたような「莫迦騒ぎ」にもなっていなかったのは、世の中にはやはり賢明な人が多いということか、あるいはゴダールなど既に過去の存在とされているのか、映画の未来は明るいような暗いような、そんな感じです。
 後半部分は6月10日からの公開、既に初日の前売券を持っています。何に荷担するにせよ、他に体験する術が与えられていないわけですから、それも致し方のないところ、公開完了数週間後から当たり前のようにビデオ発売が開始されるに、100カノッサ。


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