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サイダーハウス・ルール
監督:ラッセ・ハルストレム
2000年7月23日(新宿武蔵野館)

 移動装置を見つめる視線



 映画作品を論じるに於いて、およそ不毛な結論をしか導き出せないものの一つに「原作との比較」というのがあります。映画のノベライゼイションという、どう考えても無意味としか思えない奇特な動作はこの際無視するとして、文字通り「原作」なのですから、活字媒体のそれが先に存在しているのは言うまでもないこと、従って、両者を知る人間の体験の「後先」に関しても、当然ながら「原作」の方に分があると言えます。この後先の問題は、しかし極めて重要、何故ならば、既読のその原作を退屈なものと感じていれば、わざわざ映画化されたそれを観に行くはずもなく、従って、映画化されたそれを改めて観るというのは、その原作を標準以上にも評価している何よりもの証左、映画を観る目も当然厳しくなり、大抵の場合、「原作の良さが少しも再現されていない」などという評価に落ち着いてしまうわけです。そうでなくても、そもそも映画化される小説というのは、世間一般的な評価を既に獲得しているもの、と言うより、むしろその評価があるからこそ映画化されるとわけですから、映画は予め不利な戦いを強いられていると言っても間違いはありません。ただしかし、それはあくまでも映画が原作を忠実に再現すべきものとした場合の話で、そんなことを度外視して考える、映画と原作小説は全くの別物、映画化されたそれは、ただ単に原作から(映画の一部分に過ぎない)「物語」あるいは「主題」を借りているだけのものと考えれば、両者の立場はフェアなものに、と言うより、むしろそれらを比較すること自体が不毛であることに思い至るはずです。映画であれ小説であれ、それらを論じるということは、即ちその「媒体」を論じるということでもあるのですから、それがまるで異なる両者を並べてみたところで、何が生まれるというものでもないはず、分かり切った話です。

 ジョン・アーヴィングの小説は、文庫本だと500頁の上下巻とか、比較的長編の作品が多く、当然ながらそこで流れている時間も長く、エピソードも多数、特に「時間」という意味に於いては不自由極まりない制約を免れ得ない「映画」に於いては、これほど扱い辛い類の小説もないのかも知れません。また、文章が煩わしいくらいに饒舌、勿論、テクストとしてのそれを追い掛ける分には麻薬のような快楽を得ることすらできるのですが、しかし、それを映像表現に置き換えるというのはナカナカ容易ではないようにも思われます。トニー・リチャードソン監督の『ホテル・ニューハンプシャー』は、原作の物語をそれなりに上手く纏めてはいたものの、その分、展開が随分とドタバタしていた印象がありましたし、ジョージ・ロイ・ヒル監督の『ガープの世界』では原作からエピソードを抜粋したり、オリジナルのエピソードを捏造したりで、やはりそれなりの物語世界を構築してはいましたが、どうしてもそこに無理な「圧縮」を感じざるを得ませんでした。ただ、好意的に理解すれば、何れの場合も、その「圧縮」によるドタバタぶりが、テクストに於ける無意味にして滑稽な饒舌がもたらす快いリズム感を何となく再現しているような具合でもあり、全体の雰囲気としては悪くないものだったのかも知れません。
 余談ですが、アンリー・ピエール・ロシェの『ジムとジュール』を映画化したフランソワ・トリュフォー監督の『突然炎のごとく』も、原作の「リズム感」(勿論、翻訳されたものしか読んでいないのですが、とにかく各センテンスが異様に短いのです)を見事に再現した作品だと思っているのですが、一般的には余りそのような評価は聞かれないようにも思われます。何れにせよ、原作と映画の比較は無意味とは言い条、この場合にあるような、表現媒体自体がもたらすある種の「感覚」を別の表現媒体で再現するという試みに関して言えば、個人的にはなかなか面白いものであると考えています。それは言葉や映像自体を置き換えるのではなく、既に抽象的でしかあり得ない(つまり、予め媒体に依らない性質を備えている)それらをそっくりそのまま移行させるという事、媒体を跨いで何かを再現するといった類の「無意味な努力」とは然程縁のない動作なのです。

 さて、この作品が偉大な原作小説を持ちながらも、しかし、極めて「映画的」で、何よりも優れた作品であり得たのは、原作者自身、つまり、原作と映画は全く別物とならざるを得ないという事実を一番に理解している人間が大きく関わっていたからなのかも知れません。しかし、それが優れた監督の仕事であったこともまた事実に違いありません。例えば、第一人称を主体とした小説の多くが、その主人公が目を覚ます場面から始まるとも言われているのですが、それは文学的思考の始まりが、他でもない意識の始まりに殆ど同時である故の便宜のようなものと理解することができます。では、映画的思考とは何か、思うにそれは「移動」や「停止」といった物理的運動に触発されるもの、映画に於いては自動車や列車の停止が物語の始まりを予感させます。そうです、この作品に於いてもやはりゆっくりと停車する列車が映画的思考を目覚めさせているのです。勿論、原作はそんなふうには始まりません。あの煩わしいくらいの饒舌がここぞとばかりに物語的な状況説明を始めるという、如何にもジョン・アーヴィング的なそれです。些か映画的感性に乏しい監督ならば、その饒舌を真似たモノローグかナレーションを駆使して、無意味な「再現」を試みたのかも知れません。そうでないところが「映画的」と評する所以です。
 もう一つ別の場面。主人公がセント・クラウズを離れる決意をする場面なのですが、原作ではそこを訪れたウォーリーとキャンディーという若いカップルに触発されてその決意をすることになっています。映画でも勿論、物語的にはその通りなのですが、しかし、カメラが主人公の視線を借りて捉えていたものは、彼らではなく、ウォリーが熱心に手入れをしていた自動車、まるでその移動装置に魅入られたかのように決意するのです。勿論、それは映画的な便宜の一つでもあります。およそ時間的な制約の故に、セント・クラウズを訪れたその若いカップルに何らか触発されたということを観客に不足なく説明するのは困難、自動車を見つめる視線をそれに代用したとも言えます。しかし、私に言わせれば、そういったことこそが「映画的」に優れた感性であり、映画を「映画的」ならしめる意匠とでもいうべきか、自動車を見つめる視線が既に獲得している映画的作用、つまり、媒体固有の特質を十二分に活用しているということです。優れた映画はやはり「映画的」なのです。

 この原作はもう何年も前、単行本が発売されたばかりの頃、何処かの図書館から拝借してきて読んだ記憶があるのですが、何故か現在の所在は不明、誰かに貸したままになっているのかも知れません。そんなこともあって、この作品が映画化され日本での公開も間近になった頃に、文庫化されていたものを今度はキチンと購入、映画を観る前に読み直そうと思ってのことなのですが、しかし、結局、上巻の途中まで読んだところで映画を観るに至ってしまいました。これを書くに於いて心残りがあったとすればそれ、何れ、折をみて最後まで読み直すつもりではいますから、その際にはまた何らか加筆するのかも知れません。正直なところ、以前読んだはずのことを殆ど忘れているのです。

 何故か立見の出る盛況ぶり。そもそも公開の規模が小さいということもその原因なのでしょうが、原作者のファンが3分の1といったところなのかも知れません。「アーヴィング・ファンには女性が多い」というのは単に私の思い込みなのですが、劇場にもやはり女性の方が多くいたように思われました。あるいは主演の若い男優が女性に人気があるのかも、まさか「堕胎」を扱った映画だからというわけでもないでしょう。


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