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イマジン(1988年 米)
監督:アンドリュー・ソルト
2000年8月1日(私の映画史 #6/100)

 ベートーベンをぶっとばせ!



 ジョン・レノンがIRAに対して資金提供していたという事実を証明する資料が発見され、日本でも話題になったのは数カ月前のことです。それが何処で発見されて、情報としてどの程度確度の高いものなのかは分からないのですが、個人的には、然程違和感を覚えるものでもなく、むしろ当然とも思える「事実」として理解しました。しかし、世間的にはその真偽を巡って喧々諤々、如何せん資金提供の相手が暴力的テロリズムの象徴ともされているIRAですから、世間一般的に「愛と平和」の象徴とされている人物の動作としてはおよそ矛盾に満ちたものと映るのも道理、その「事実」を捏造されたものとして否定したがるのも分からない話ではありません。ビートルズ絡みの話題となるといまだコメントを求められる(ネット犯罪に際しての「日コン連山本」のような立場でしょうか)湯川れい子女史が「とても信じられません」などと発言していたのが象徴的です。私などより余程ジョン・レノンのことを知っているはずの(直接会って話をしたことがあるくらいですし)女史が何故そのような発想に至ってしまうのかは全く以て不明なのですが、彼女はともかくとしても、例えば、この『イマジン』というドキュメンタリー映画を観て、死後発売されたアルバムを2、3枚聴いた程度では、彼がテロリストに荷担するような人物とは到底理解できないはずです。そして、それが必ずしも知識、情報量の差違に依るものでないところが一番の問題、1980年以後(あるいはそれ以前に於いても)、巧妙に構築されてきた「虚像」にこそ問題の本質が隠されていると、私に言わせれば、そういうことになります。
 虚像の構築という意味に於いて、最も露骨だと思うのが、彼の活動に於ける「ある一時期」が、後になって殆ど黙殺されているにも等しい状況にあること、その「一時期」というのが、他でもないIRAに資金提供したともされている時期に同様なのは決して偶然ではないでしょう。それは、その時期に発売されたアルバムに収められていた曲が、彼の死後発売されたベスト・アルバムの類から完全に排除されているおり、「シングル・コレクション」と謳われているものに於いてすら、そのアルバムから実際にシングル・カットされたはずの曲が含まれていないという徹底ぶりです。尤も、その曲に関して言えば、表題に差別用語が含まれている(発売当時も一部に於いては放送禁止の憂き目に遭ったようです)こともその理由の一つなのかも知れませんが、しかし、その事がマサにその当時の彼の些か過激とも目されている活動を象徴してもいるわけですから、理由はどうあれ、結果としては同じことです。
 その時期に彼が何を歌い、どのような活動をしていたのかは割愛するとして、彼自身も認めているように、それが結果として「左翼に利用されていた」だけだったというのもまた周知の事実、勇ましい活動の舞台裏は、実にお粗末で情けないものだったわけです。あるいは彼自身にとっても「抹殺したい過去」の一つだったのかも知れませんが、何らか言い訳めいた発言を繰り返すことはあっても、しかし、その活動自体を否定することなどなかったようにも思われます。何れにせよ、それが誰の意志であるにせよ、彼の死後、その過去は完全に黙殺され、見事な虚像が構築されたのは疑う余地のないところ、彼の死から20年を経た現在、IRAに対する資金提供の「事実」を認めようとしない人間の多さが何よりもそれを証明しているのではないでしょうか。

 オレは昔からベートーベンなんてトンだイカサマ野郎だと思ってたんダ!

 ジョン・レノンの発言、ビートルズのアメリカ進出が大成功を収めた頃のものだったと記憶しています。ビートルズが成功し、マス・メディアによって自身が「語られる」ことを彼は冷静に観察していたのでしょう、その殆どが「虚像」に過ぎないことを早くも看破していたようです。彼はベートーベンを引き合いに出していますが、おそらくは歴史上の有名人ならば誰も良かったに違いありません。彼にとってメディアを介してしか知ることのできないそれら人物の本質もまた虚像であると、自身の経験則からそのように断じているわけです。その発言が、もし何らかを批判してのものならば、それは間違ってもロマン派の作曲家に対してではなく、対象の本質を歪めずには何ら伝達し得ないマス・メディアというものの如何わしき性質に対して、至って若者らしい憤りとも理解できます。その数年後、ビートルズの解散も間近い頃になると、今度はその「虚像の装置」であるマス・メディアを逆利用するようになります。有名な「ベッド・イン」などがそれ、もし仮に今現在の「虚像」が彼にとって不本意なものであるならば、その蹉跌はその頃から始まっていたのかも知れません。
 何れにせよ、そうやって虚像を弄ぶことはあっても、マス・メディアが勝手に捏造した虚像など唾棄すべきというのが彼の基本姿勢であることに間違いはなく、この作品にもそんな場面が登場します。当時アスコットにあった彼の邸宅の敷地内をウロウロとしていたヒッピー青年との遣り取り、目も虚ろなその青年の視線の先にあるのは他でもない虚像としてのジョン・レノン、彼はその青年を「被害者」と考え、かなり辛辣な表現で(彼自身の責任もあって)自らが纏ってしまった虚像を破壊しようと試みます。ただ、そこで彼が発言していることは、どれほど極端なものではなく、詩人の言葉が所詮その程度のものであることなど、ほんの少しでも「創作」に関わったことのある人なら簡単に理解できるはず、詩人がその言葉通りいつも深刻ぶっていたら、たった一冊の詩集も残せないままこの世を去ることになるに違いありません。
 ただ、何よりも重要なのは、そうやって確信犯的に「虚像」を破壊し、嘘偽りのない本来の姿を示しているはずのその場面も、しかし、結局はまた新たな「虚像」を生み出しているに過ぎないということ、「虚像を忌み嫌い、真実を晒け出すジョン・レノン」とでも題すべきか、そこには逃れがたい罠が、「マス」と対峙する必然としてメディアを介することとは、結局、それ以外の何ものでもないのかも知れません。

 このドキュメンタリー映画は意外とよく出来ています。何よりも、死後8年も経っているはずの人間がナレーションを務めるという構成は、私のような人間にすらある種の「錯覚」をもたらしてしまいます。そのようなトリックを使えたのも、単なる「一ポップ・スター」に関わるフィルム、ビデオ映像、インタビュー・テープの類が膨大な量残されていたため。そして、そのような場面に於いて彼が何よりも自分自身のことを語っていたというのがまた重要な点、フィルム等の膨大な量が異例ならば、それほどまでに自分自身について発言するというのもまた異例、彼の人物の本質を理解するには、むしろ「虚像」を有効活用していた一連の平和運動などより、そういったことに着目すべきが肝要であるようにも思われます。何れにせよ、あらゆる「映画」がそうであるように、何の恥じらいもなく「真実」などと謳ったこのドキュメンタリー映画もまた、「虚像」を捏造する装置である以上の何ものでもなく、期待された「物語」を垂れ流す以上には、何らの機能を有していないようにも理解されます。

 理由は忘れてしまいましたが、この作品が公開された当時、私には何故か音楽関係の繋がりで付き合いのあった人間が比較的多くいて、しかも面倒なことに、それら知人からそれぞれ別々に誘いを受けたこともあって、この同じ作品を何度も劇場で観るという奇妙なことにもなっていました。誘われても断らなかったのですから、私にも当然その気が、それなりに愉しい時期だったのかも知れません。
 尚、ここに於いて断定的に記されているすべてのことは、やはり私の有する「虚像」を根拠としているに過ぎないことを補足しておきましょう。


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