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映画とアニメに関する覚書
2000年8月3日(雑記)

 それはシニフィアンの銀河



 さて、多少勘の良い方なら、この副題をみただけで、予め偏った私のスタンスを察してしまうのかも知れません。「映画」と「アニメ」という区分けがそれ、もう少し良心的な人ならば「実写」と「アニメ」とするはず、私はつまり劇場公開用に制作された所謂「アニメ映画」であっても、実写フィルムによる「映画」とは全くの別物と、少なくとも同じ土俵で論ずべきものではないと、そう考えているわけです。従って、何年か前の日本アカデミー賞で(そもそもそんな賞に何の意味もない、という話はさておくとして)『もののけ姫』が作品賞を受賞したのなど、例えば、手塚治虫が芥川賞を受賞するのと同じくらい奇妙なことだと感じました。勿論、それら両者を比較して優劣を付けてやろうという魂胆があるわけではありません。確かに、私は「アニメ映画」など全くと言って良いくらい観ませんし、そもそも観る気がありません。しかし、だからと言って、漫画を含めたそれらを「日本が海外に誇れる文化の一つ」と胸を張る人を否定するつもりもありませんし、それはそれで「事実」なのかも知れないと認めてもいます。私に(アニメに対する)何らか否定的な意志があるとすれば、少なくともこういう連中とは友達になりたくないと思うくらい、それは多分「アニメ」自体とはまた別の問題なのかも知れません。何れにせよ、ここで問題としているのは、「映画」と「アニメ」が全くの別物であるということであり、私は「映画」には興味があるが「アニメ」には殆ど興味がないということ、そう考える理由を以下に並べています。

 至極単純な話、「映画」と「アニメ」では先ず以て「目に映るもの」が違います。前者が「動く写真」なら後者は「動く絵画」、「写真」と「絵画」を同じ土俵で論じるのがおかしいのと同様の理由で、それら二者を同じ土俵で論じるのもやはりおかしいのです。しかし、そんなことを言っていると「厨房は逝ってよし!」とか、途端に莫迦扱いされてしまいます。その「単純な話」を小学生レベルと断じる人の理屈は、それが「動く写真」であれ「動く絵画」であれ、そこで語られていることは同じ、あるいは、今時「映画」などより余程「哲学的で高尚」な「アニメ」も存在すると、大凡そんなところではないかと思われます。確かに、些か厄介なのは、それらが単に「動く写真」や「動く絵画」などではなく、その「運動」が機能として何かを語っている、そこに「物語」を生じさせていることです。もし仮に、「物語」をこそ第一義として映画を論ずるのならば、その媒介となるものが何であれ、そんなことは然程重要でもなく、映画もアニメも等しく同じ土俵で論ずべきという結論にもなるのかも知れません。しかし、その理屈に従うならば、活字媒体による「小説」の類をも同じ土俵に上げざるを得なくなってしまうはず、そもそも「物語」とは「言語活動」以外の何ものでもありませんから、むしろ「小説」こそが最も優位であるとさえ言い得てしまいます。
 余談ですが、ウエブ上や活字媒体で『サイダーハウス・ルール』に関する論評の類を幾つか読んで思ったのは、「こんなモノは映画を観なくても書けるゾ」ということ。そこに書かれてあることを、そのままジョン・アーヴィングの原作小説の書評に置き換えても殆どが通用してしまうという阿房らしさ、何故そのような映画評が(ウエブ上はともかくとしても)活字媒体に於いてまでも罷り通ってしまうのかと言えば、既述の通り、そこに在る「物語」のみを殊更重要視するという悪弊の故、映画に於ける映像を、単に「物語」を補完、説明するためのものと勘違いしているからに他なりません。小説の挿絵や絵本の絵の延長線上にあるものが、映画ではありません。

 徐に「シニフィエ」とか「シニフィアン」などと書き始めると、あるいは「面倒臭そうな話」と敬遠されてしまうのかも知れませんが、別に難しい話でもありませんし、私も然程詳しいわけではありません。映像に於けるシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の関係とは、例えば「犬が走っている映像」がシニフィアンならば、「犬が走っているということ」がシニフィエ、と、少し紛らわしいのですが、要は「犬が走っている映像」を観れば、大抵の人が「ああ、犬が走っているなあ」と思う、何故そう思うかと言えば、それは「犬が走っている映像」を観たから、という意識の連鎖とでも言うべきか、とにかくシニフィアンの結果としてシニフィエがあるということです。
 これを「映画」と「アニメ」の話に応用すると実に分かり易くて、つまり、それらはシニフィエは同じでもシニフィアンが違うということ、「犬が走っている実写映像」(シニフィアン)を観ようが、「犬が走っているアニメ」(シニフィアン)を観ようが、何れの場合も、観る人が結果として「犬が走っているということ」(シニフィエ)を理解するのは同じなのです。そして、多少大雑把になりますが、映画にせよアニメにせよ、そこで意味されるもの、即ちシニフィエの総体とは他でもない「物語」、つまり、シニフィエという言語化された意味理解を第一義とすれば、それら両者にどれほどの違いもないということなのです。しかし、そこで明らかに異なっているものを無視しても良いということは決してないはず、それは勿論、シニフィアンの事です。彼のロラン・バルトは「テクストはシニフィアンの銀河ダ!」と宣言しましたが、私はつまりこう言いたいのです、「フィルムはシニフィアンの銀河ダ!」と。

 シニフィアンとシニフィエの関係で言えば、「アニメ」のそれは「映画」に比べて、明らかにその関係性に於いて強固であると考えられます。何故ならば、そこにシニフィアンを「描く」人間の頭には先ずシニフィエがあって、それを観客に正確に伝達すべく作業に至るからです。勿論、それは映画も同じこと、監督の頭の中に「何を伝達すべきか」という「意味」が先ずあってこそ被写体にカメラを向けるわけで、一部アヴァンギャルドを除けば、闇雲にカメラを回したりはしないはずです。しかし、それを「程度」の問題に置き換えてみると、その差異は歴然としているようにも思われます。一分の狂いもないとは言わないにしても、しかし、それ以外の余地など殆ど生まれないくらい正確に、そこにシニフィアンを描写することは可能、観る側にしても、そこに容易に発見し得る以上の意味を求めたりはしないはずです。そこに在るシニフィアンは、そのアニメ内部のシニフィエに完全に従属し、それを逸脱することなど殆どあり得ないのです。
 然るに、映画のそれはかなり事情が異なっています。そこにシニフィアンを提示するに於いては、アニメにはあり得ない「被写体」という、時によってはそれ自体がまた意志を有してもいる存在を「捉える」という些か面倒な作業が必要に、その「気紛れさ」はアニメが実現する「正確さ」には程遠いものがあります。また、映画に於けるシニフィアンは観る側が経験として既にある特定のシニフィエと強く結び付けている場合も多く(アニメのシニフィアン、つまり「絵」は、そのアニメの中でしか観ることができません)、時として、映画の外にそのシニフィエを持ち出してしまうことにもなり、そこにもまたある種の「気紛れさ」の余地が生まれるのです。そう考えてみると、画一的なシニフィエ、あるいはその総体としての「物語」を観客に正確に伝達するに於いては、アニメの方が余程優れているということにもなるのですが、それはそれで決して間違いではありません。この場合の「正確さ」とは、あるいは「平易さ」とも、一般に言われているアニメの対象年齢の低さはそれ故のこと、シニフィアンとシニフィエが単純な連関をしか為していないものは「分かり易い」のです。

 正直なところ、「作者の意図」や「物語」を度外視して、「そこに在るもの」即ちシニフィアンのみを目撃するという動作がどれほど意義深いことなのかは、私にもよく分かりません。しかし、間違いなく言えることは、「映画」のシニフィアンと「アニメ」のそれでは、前者の方が遙かに魅力的であり、また(意図されたシニフィエと切り離した)それのみが「快楽の装置」として十分に機能し得るということです。あるいは、それは単に個人的な嗜好の問題に過ぎないのかも知れず、アニメのそれに私と同様のことを感じる人もいるのかも知れません。しかし、何れにせよ、先ず「そこに在るもの」を重要視し、その明らかな差異を以て「映画」と「アニメ」を区別することが然程莫迦げた動作でもないことは了解していただきたいところです。それらを同じ土俵に並べるのなど論外、仮に宮崎駿のアニメがカンヌ映画祭でパルムドールを取ったとしても、しかし、それだけは譲りません。


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