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リプリー
監督:アンソニー・ミンゲラ
2000年8月5日(新宿ピカデリー1)

 人間を殴り殺すための道具



 ルネ・クレマン監督が1960年に撮った『太陽がいっぱい』という映画、例えば「著名人が選ぶ洋画ベスト100」といった類の、およそ資料的価値など皆無に等しい書籍に於いて、必ずと言って良いくらい上位にランクインすることからも分かるように、日本での評価はかなり高いようです。しかし、ヨーロッパ映画全般に対する評価が日本ほどでもない、「映画全体」に対する姿勢としては些か誠実さに欠けるとも思われるアメリカに於いては、やはりその程度の作品としか認識されていないようで、所謂「シネフィル」の類でもなければ、その存在すら無視されているに等しいと言っても決して過言ではないようです。従って、日本に於いてはそのリメイクということが専ら話題の中心となっているこの『リプリー』という作品も、アメリカに於ける一般的な認識は少し違っているものと思われ、また、監督自身が「ルネ・クレマンの旧作など少しも意識しなかった」と繰り返し発言していることも、その発言を聞いた殆どの人が勘ぐるように「比較されることを回避するための周到な予防線」などではなく、むしろ言葉通りに理解すべきものなのかも知れません。あるいは、それ以前の問題として、パトリシア・ハイスミスによる原作小説があるわけですから、そもそも「リメイク」という発想自体が少しおかしいとも言えます。何れにせよ、これら2作品を比較することにどれ程の意味があるとも思えず、また、既に言われているように、その趣旨がまるで異なっているとなれば尚更のことです。それでもしかし、此処に於いて敢えてその比較をするのは、作品中の「あるシークエンス」のみが何故か異様に酷似しており、そして、酷似していながらもしかし、その「扱われ方」の歴然とした差違に、これら両作品の明らかの性質の違いが垣間見えるようにも思われた故のことです。

 問題とするのは「フレディー殺し」のシークエンスです。尤も、原作小説があるわけですから、それにある程度忠実に場面を再現すれば両者が類似するのは当然、監督の発言とは裏腹に、このシークエンスに関してのみ旧作を参照したというわけでもおそらくはないでしょう。私としてもあくまでも「似ているからこそ比較し易い」というパラドクスとして、それ以上の何らかを勘ぐってというわけでもありません。他が余りにも異なっているため、このシークエンスを唯一の接点として探らざるを得ないという些か情けない事情もあります。
 さて、そのシークエンス、誰も知らないはずの(ディッキーを装う)リプリーの部屋を唐突にフレディーが訪問、室内をウロウロとしながらディッキーの不在を何となく訝しく感じた彼も、一旦は諦めて帰ろうと、しかし、あることが原因でリプリーがディッキーを装っているという事実に確信を得て再びリプリーの部屋へ、待ち構えていたリプリーに撲殺されてしまうという、大凡そのような感じです。物語的に類似しているのは、そもそも原作がその通りですから当然のこととして、それ以外の部分で特に気になったのは、何れもが、フィレディーが室内をウロウロとする場面で、後に凶器となる「置物」を暗示的に捉えるカットを用意していたことです。また、原作では「大きな灰皿」とされている凶器が、両作品ともに何となくイタリアを連想させる「胸像」だったということも共通しています。さらに、原作では、最初の一撃でフレディーが倒れた後も、息の根を止めるべく執拗に殴り続けるのですが、何れの映画でも、最初の一撃で彼の巨漢を見事に仕留めています。その他にも、階段の踊り場からチラと顔を覗かせるリプリーをフレディーが目撃するカット等々、私の記憶力の問題もあって「印象として」と前置きをせざるを得ないのですが、(同じ物語状況を説明する必然を割り引いても)似通ったものが幾つかあったように思われます。これら類似点に共通するのは、その何れもが極めて「映画的」な物語、状況説明の手法、つまりは常套手段であるということです。暗示的な視線はカメラの特権、それが「大きな灰皿」でないのはシニフィアンとしてより自由な存在であり得るため、そして、たった一撃で巨漢を倒してしまう「映画的非現実性」は、もはや言わずもがなのことでしょう。従って、これらの類似が単に「偶然の一致」に過ぎなくても、然して驚くことでもないはず、私の如きが今さら解説するのなど片腹痛い話です。
 では、一体何処が違うのか? 否、実に単純な話として、先ずそのシークエンスに割り当てられている「時間」がまるで違っています。『太陽がいっぱい』のそれに比べて『リプリー』のそれは圧倒的に短く、そのシークエンスに対して殆ど重きを置いていないようにすら感じてしまいます。後者に関してはサスペンス的な要素も皆無、例えば、前者に於いてはフレディーが階段を駆け上がってくるカットとリプリーが胸像を振り下ろすカットの間に、扉の陰で待ち構えるリプリーのカット(ほんの数秒のことが何時間にも感じられるという、そういう状況での心理状態が見事に表現されています)が挟まっているのですが、しかし、後者に於いてはそれがなく、いきなりフレディーの視線を借りた撲殺のカット(記憶は曖昧です、視線の位置に関しては間違っているかも知れません)に繋がってしまうのです。また、それに続く死体処理の場面も、夜を待つまでの「時間」の描写、階段を引きずり下ろす場面(『太陽がいっぱい』では、原作にはないユニークにして実に緊張感のあるアイディアが付加されています)等々、『リプリー』の方は余りにもあっさりしています。そして、私が何よりも問題としたいのは、凶器として使用された胸像、それらの質感の違いです。『太陽がいっぱい』のそれは薄いグリーンで表面にはツヤがあり滑らかな感じ、また、底面が広く背が低い、置物として安定感がありました。しかし、『リプリー』のそれは白く角張りツヤもなく、形状を大雑把に言えば縦長の円筒形、それを予め暗示させるカットに於いて、がさつなフレディーがウッカリそれを落っことしてコロコロと転がしてしまうことからも分かるように、置物としては如何にも安定感に欠けたシロモノ、つまり「軽い」のです。それが単なる置物ならともかくとして、此処に於いては「人間を殴り殺すための道具」でもあるわけですから、その「軽さ」は致命的、不気味な色彩とその質感も相俟って、リプリーがそれを振り上げた瞬間、マサに「人間を殴り殺すための道具」以外の何ものでもなくなった『太陽がいっぱい』のそれとは比べものにならないくらいお粗末なものに映りました。
 このシークエンスの後についても少し言及しておきましょう。対照的なのは、『太陽がいっぱい』の方が、そのシークエンスを境に「ディッキー(フィリップ)の不在」に転じるのに対して、『リプリー』の方はむしろ「リプリーの不在」がさらに加速、物語的には後者の方がより原作に忠実と言えます。前者の状況転換は、その殺人をディッキー(フィリップ)に被せようとリプリーが緻密に画策する故、彼はあくまでも「リプリー」として見えざるディッキー(フィリップ)を操り、状況を巧みに捏造するのです。然るに後者、つまり原作に比較的忠実な方では、その後も自身がディッキーを演じ、ディッキーとして刑事にも応対するという、その状況的非現実性の故に些か緊張感の欠落した場面をそこに展開させます。前者が緊張感溢れるサスペンス・シーンを契機にさらに物語的な緊張感を高めていくのに対して、後者に於いては、その「フレディ殺し」のシークエンス自体がそもそも何となく遣り過ごされており、当然の結果として、状況転換の装置としても殆ど機能していないのです。
 総じて、『太陽がいっぱい』のそれがまさに「サスペンス」であるのに対して、『リプリー』それは、その要素の極めて薄い、物語全体に於ける「一つの過程」をしか意味していないようにも思われます。勿論、後者のそれが如何にも盛り上がりに欠けるからといって、しかし、監督の技量が云々という話でもないはず、そこに作品全体の性質の差異が端的に示されている、あるいは、それを如何に「扱う」かによって、その性質に対する明確な意思表示が為されていると理解するのが妥当ではないかと思います。つまり、「私はサスペンス映画なんて撮る気はサラサラありません」と、その如何にもお粗末なシークエンスを以て、アンソニー・ミンゲラ監督はそう宣言しているのです。勿論、皮肉を言っているわけではありません。その見事な「サスペンス」はあくまでもルネ・クレマン監督のものであり、パトリシア・ハイスミスの原作とは殆ど関係がないのですから。

 アンソニー・ミンゲラ監督によるこの作品が、「トム・リプリー」という存在のある特異なセクシャリティーにより重点を置いたものであることは、既に多く語られていることです。一見その設定自体が無視されているかのようにも思われているルネ・クレマン監督のそれに於いても、しかし、彼のそのセクシャリティーは十分に示されています。故淀川長治氏による詳細な解説の助けを借りる必要のある極めて微妙な描写に関する部分は割愛するとしても、醜悪極まりない「スノッブ」であるフレディーとの精神的確執(ミンゲラ監督のそれでは然程強調されていなかったようにも思われます)など、一般に「繊細」とも言われているホモセクシャルのメンタリティーを強く示していますし、また、これは原作の物語を大胆に変更している部分でもあるのですが、マージ(マルジュ)に一旦財産を相続させておいて、後でマージ(マルジュ)ごと手に入れてしまうという悪辣極まりない遣り口も、表面的な愛の言葉とは裏腹に、異性を「道具」としか見做していない故にこそ為し得ること、原作の「物語」こそ無視してはいるものの、そこに示された「トム・リプリー」のメンタリティーは、どれほども原作を逸脱していないように思われます。その意味に於いて、「原作に忠実」とは言い条、ミンゲラ監督による原作の応用は至って凡庸なものにも感じました。

 予め「比較は無意味」と宣言しておきながらの脱線ぶりには我ながら呆れてしまうのですが、「脱線」序でにもう一つ、原作小説の「物語」を殆ど書き換えているにも等しいルネ・クレマン監督のそれが、しかし、如何に原作を生かしているかという最高の例を。

 最高級のホテルに。最高級の、最高級だよ!

 原作小説はリプリーのこの台詞で終わります。自身でも信じ難いくらい上首尾に事が運んでしまい、マサに快哉を叫ぶのです。
 一方、ルネ・クレマン監督のそれでは、まるで場面は違いますが、飲み物の注文を取りに来た女給に対して、やはりこう言います、「最高のものを」と。尤も、既にその後の転落が暗示されているという意味に於いては、その台詞が果たす機能は原作のそれとはまるで異なってしまうのですが、しかし、有頂天になった彼の「最後の台詞」という意味では同じ、もし私が原作者ならば、その「引用」を何よりも喜ぶに違いありません。単に「物語」を再現すれば良いというものでもありません。

 余談ですが、個人的に「トム・リプリー」という固有名詞から先ず連想する俳優は、アラン・ドロンでもなければ、ましてやマット・デイモンでもなく、ヴェム・ヴェンダース監督の『アメリカの友人』でリプリーを演じたデニス・ホッパーです。勿論、小学生の頃に初めてテレビで観て、それから何度も観ているアラン・ドロンのそれの印象が一番強いのは確かなのですが、しかし、彼のそれはあくまでも「匿名のルサンチマン」であり、必ずしもその固有名詞と連関しているというわけでもないのです。

 結局、『リプリー』について書いているつもりが『太陽がいっぱい』に関する記述が大半を占めているという、いつにも増して混乱を来したテクストになってしまったような気がします。しかし、正直なところ、此処で書いているほど『太陽がいっぱい』が好きなわけでもありません。比較の対象が悪過ぎたということなのでしょう。

 冒頭、日本に於いては『太陽がいっぱい』が評価されていると書きましたが、公開初日にしてガラガラの大劇場でその「再映画化作品」を眺めるに及んでは、その評価があくまでも言語活動の場面に於けるものに過ぎないことを実感しました。そんな評価より何よりも、観客にとっての一番の関心事は主演男優が「ジミー大西」に如何に似ているかということ、これから観るつもりの人のためにも私が此処で断言しておきましょう。ハイ、そっくりです。


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