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ロスト・サン
監督:クリス・メンゲス
2000年8月6日(シネスイッチ銀座2)

 マッチョイズムよ、サラバ



 映画のジャンルを意味する「フィルムノアール」というフランス語の起源は、勿論、ハリウッド映画にあります。日本語に訳せば「暗黒映画」となるそれは、本来1940年代から60年代初めに制作されたハリウッドの「探偵もの」あるいは「ギャングもの」の総称、その影響下に於いて制作されたヨーロッパ映画も含めて、当時、フランスの映画人達が敬意を込めてそう呼んでいたのです。後になってその表現がむしろハリウッドに逆輸入されて、そのフランス語のまま通用するようにもなったのは、当時のフランス映画人の慧眼を教える象徴的な例とも言えるのですが、しかし、そこには敬愛の念と同時にまたコンプレックスも、『ピアニストを撃て』や『アルファビル』に於ける些か歪んだ「再現」など目撃するにつけ、そんこともまた思い至ります。

 20世紀も間もなく終わろうという現在に於いても、ヨーロッパ映画人の間では相変わらずそんな意識が強いのでしょうか、『ロスト・サン』というこの映画は、もうコテコテのフィルムノアール作品でした。些か生活感に乏しい一匹狼の私立探偵が、得体の知れない「正義感」に促されて、その本来の趣旨からは大いに逸脱して悪人を懲らしめる、しかし、後には何も残らず寂寞感が漂う、という、大凡そのような感じです。
 それを「フィルムノアール」とジャンル付けにするに於いては、しかし、ただ単に「探偵もの」であれば良いというわけでもありません。既述のような設定、物語に加え、主人公である探偵による第一人称の視点に徹したカメラワークや作品全体の色調等々、それ相応の「決まり事」があります。この作品に於いて、物語構成上、最初の20分くらいはメインとなる事件とは関係のない別の事件や、主人公の探偵が(欧州人らしく)サッカーに興じている場面などを映しているのですが、そのように予めその探偵の「人となり」を周到に説明しておくというのも、やはりその一つです。そういった「定石通り」の演出、構成は、ともすれば「独創性に欠ける」とか「ワンパターンである」とも批判されがちですが、しかし、所謂「ジャンル映画」とはそういうもの、それが好きか嫌いかという事とは別次元の問題として、ひたすらに定石を守ることにこそ意味があるのです。既にシリーズを重ねている『ダーティー・ハリー』のキャラハン刑事ですら、毎度「些細な事件」を幾つか片付けてからでないと肝心の「メイン・ディッシュ」には在り付けないというのもやはり同じこと、その意味に於いて、『ロスト・サン』はフィルムノアールの伝統を忠実に再現した作品であり、それを愉しむ分には十分なものだったと思います。

 ただ、何であれ「コード」というのは時代と共に移り変わるもの、ハンフリー・ボガードが演じた「フィリップ・マーロウ」のようなのをそのまま現在に出現させたのでは、単なる「パロディー」にしかなりませんから(個人的にはそれで十分愉しめますが)、当然ながら、そこにはある種の「修正」らしきが、そのヘンのところにはやはり多少の不満が残りました。
 主人公が「煙草は遠慮して下さい」と窘められたり「禁煙中です」と発言する、そんな些末な事はともかくとして(愛煙家としては大いに不満ですが)、一番の問題は、伝統的フィルムノアールに欠かせない要素であるはずの「悪女」の存在がそこに欠落していたということです。フィルムノアール的な悪女とは、一見して当節風の「自立した女性」と似ているような部分もあるのですが、しかし、その本質はあくまでも主人公の「マッチョイズム」を前提とした、それと対峙させ際だたせるための存在であり、また、最後の最後には結局それに屈してしまうという、ある意味に於いては世の男性諸氏の(日常的には到底叶わない)欲求を満たすべくのものでもあります。対象を漠たる「社会悪」としたおよそ正体不明の「正義感」をそこに再現することはできても、しかし、その対象を「女性」とした「支配欲」の如きを再現するのは、もはや「時代のコード」が許さなかったということなのかも知れません。「悪女」の不在は「マッチョイズム」の不在にこそ、後者の不在にも関わらず(単体では必ずしもコードに抵触するとは限らない)前者のみをそこに登場させていたら、おそらくは今どきの安っぽいハリウッド映画のようになっていたに違いありません。そこに悪女を登場させなかったのは、偏にフィルムノアールを愛する監督の良心、取り敢えずはそんなふうに思うことにしています。尤も、ナスターシャ・キンスキーが演じた女性は、ハワード・ホークス監督の名作『三つ数えろ』でのローレン・バコールを何となく連想させる役柄、そうでありながらしかし(ヒステリックに叫くばかりで)何一つ「悪女らしさ」を全うし得なかったのは如何にも中途半端な感じ、その他の女性に関しても似たような印象を持ちました。「悪女描きたし、否、しかし…」と、その昔は大陸を隔てた同時代的コンプレックスでしかなったものが、今時はそれをさらに「時代」が歪めているという、あるいはそんなところなのかも知れません。
 尚、おそらくは意味が通じているのであろう「マッチョイズム」なる語彙が本当にあるのかどうかは知りません。以前、石原慎太郎(当時)代議士が宮沢(当時)首相を評する場面に於いてそんな語彙を使用していたのを憶えているだけです。

 公開最終週ということも影響しているのかも知れませんが、日曜日の午後であるにも関わらず、劇場はガラガラ、私を含めて10人もいなかったのではないでしょうか。私が思うに、これは配給者の蹉跌、当節風に「マッチョイズム」を排除しているとはいえ、やはりこのテの作品が女性に好まれるとは到底思えないわけで、「女性向けプログラム」を意図的に配してきたはずの「シネスイッチ銀座」で掛けるのには多少の無理があったような気がします。と、「女性向け」とか「女性に好まれる」とか、今どきそんな発言を平気でしている私こそが恐るべきマチョリスト(?)なのかも。然るべき団体から「吊上げ」などを喰ったりせぬよう、私の発言にも大幅な「修正」が必要のようです。


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