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自転車泥棒(1948年 伊)
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
2000年8月11日(私の映画史 #7/100)

 ネオ・リアリズモ、覚書



 なんという時代、いまは
 木々についての会話が
 ほとんど犯罪に類する
 なぜなら、それは無数の
 蛮行について沈黙することになる!

 ブレヒトの詩です。詩人とは本来、美しいものを「美しい」と表現することが、その役割とされてきました。しかし、ブレヒトはそれを否定、「犯罪に類する」とまで宣言しています。この詩の背景にあるのは、言うまでもなくファシズム、現実の社会状況が歪んでいる以上、もはや美しいものにのみ気を惹かれている猶予はなく、詩人とて、社会的、政治的関心を促すための言葉を模索すべきとしています。この詩の形式が、およそ詩的調和に程遠いのも、それによる「異化効果」が試されている故、読み手を現実に引き戻す必要があるのです。

 ブレヒトは、彼の主な表現媒体であった演劇に於いて、現実を忠実に描写、再現することを以て、観客に対して現実を認識させる最良の手段とは考えず、あくまでも「身振り」を「示す」ことを以てその手段としました。映画はしかし、現実を再現するという場面に於いて演劇の比ではなく、むしろその「再現性」こそが映画の特権、従って、そこに単に現実を映し出すだけでも、それらを十分に認識させることは可能であり、場合によってはブレヒトの演劇論をすら無効にしてしまうものですらあり得ます。尤も、その無邪気な特権の故に、映画という新しい表現媒体の知性が疑われていた時代があったのもまた事実、ただカメラを回すだけで何かが成立してしまうのでは、そこに本来関与すべき、知性を問われるべき対象の不在を容認しているも同然だからです。

 そもそも「現実」とは、「現在」がそうであるように、間違いなく存在し、認識可能なものであっても、しかし、それを再現することなど不可能、何故なら、再現されるのはあくまでも「過去」に過ぎないからです。また、それが各々の主観によって認識される性質のものである故に、その数だけ「現実」が存在してしまい、しかも、そこには「他者の現実=虚構」という不可避的状況もまた隠されています。従って「現実主義」というある種の態度がその矛盾を回避するためには、そこで語られる「現実」の意味を予め変更しておく必要があり、つまり、それは「社会的現実」とでも表現すべきもの、不変とは言わないまでも、ある一定の時間的、空間的尺度に於いて、その持続と、複数の主観による共有が確認される、要は一時的にも(テクストやスクリーンに)貼付けておくことのできるものこそが、「現実主義」の求める「現実」なのです。

 第二次世界大戦後間もなくしてイタリアに起こった「ネオ・リアリズモ運動」も、ブレヒトのそれと同様、政治的な意志の結果によるものと言えるのでしょう。カメラはスタジオを飛び出し、そこに在る廃墟と貧困という「社会的現実」を容赦なく捉えます。本来、虚構を映すべき場所に現実を映すという矛盾、あるいは既知のものをそこに再現するという矛盾は、観る者に対して現実からの逃避ではなく、現実への積極的な参加、意思表示を促します。

 それが「社会的現実」であるためには、捉えられるべき対象の「匿名性」が前提条件となります。もしそうでなければ、それはある特定の個人の物語であり、仮にそこに不幸が描かれていたとしても、それは単にその個人に由来する不幸でしかなくなってしまうのです。ネオ・リアリズモを含めた「現実主義的映画」の多くが、職業俳優を排して素人同然の一般人をそこに登場させるのもそれ故のこと、それが匿名の、一般化された不幸であることがより現実的、否、「社会的現実」とはあくまでも「匿名の現実」の総体に他ならないと言うべきかも知れません。
 さて、何かが矛盾しているようにも感じられるのは、それこそがまさにブレヒトが示唆した「身振り」だからではないでしょうか。

 結局、「社会的現実」とは甚だしくも「身振り的」なものであると、そう結論付けるのが妥当ではないかと考えています。ブレヒトのそれはそもそも「舞台」という限られた空間に「社会的現実」を出現させるための試み、つまり「身振り」が一つの手段であり得るのは、それが本来在るべきでない場所に在る故、「身振り的」であること自体はどれほども特異なことでもないのです。「再現性」に優れた媒体によって、「現実主義」の名の下に現実をより現実らしく捉えようとすれば、そこに炙り出されるのはしかし至って身振り的な存在、矛盾どころか、必然とすら言えるのかも知れません。ブレヒトの慧眼もさることながら、「自然である」ことが即ち「身振り的である」という事実を容易に知らしめてしまう「映画」の威力は、破壊的ですらあります。

 ヴィットリオ・デ・シーカ監督によるこの作品、一般にネオ・リアリズモの代表作のようにも評されていますが、例えば、ロベルト・ロッセリーニ監督による一連の作品などと比べると、実際には然程評価されているものでもありません。私もやはりそのような印象しか持っていないのですが、ただ、「ネオ・リアリズモ」と呼ばれている一連の映画作品の中で、私が一番最初に観たのがこの作品、その意味では非常に印象深い作品ではあります。この作品を観て、私が先ず想起したのは「貧すれば鈍する」という諺、現実主義というわりには、犯人と何度もニアミスがあったり、些か「物語的」が過ぎると、そんなことを思った記憶があります。

 実はこのテクスト、数カ月前にロベルト・ロッセリーニ監督の『ドイツ零年』に関するテクストのつもりで少し書いて、そのまま抛って置いたものなのです。何故途中で止めてしまったのかと言えば、その作品を対象とするのは余りにも荷が重すぎるような気がしてきたためです。そして、先日HDの奥から偶々それを発見したのを良いことに『自転車泥棒』にすり替えてしまったのは、やはり先日偶々それを再観する機会があったからというだけではなく、「『自転車泥棒』なら大丈夫かな」と、不遜にもそんなことを考えたからに他なりません。つまり、私にとってはそんな作品であると、まあ、そんなところなのかも知れません。

 この作品を観たのは以前池袋北口にあった「ロッポニカ池袋」という名画座。数年後にはポルノ専門になってしまったという話はともかくとして、この劇場、そもそもが名画座として建てられたものでもなかったはず、「ロッポニカ」という新しい映画制作会社か何かが、そこで制作された作品を上映するために建てたものではなかったかと記憶しています。何れにせよ、今現在は劇場自体が残っているのかどうかも不明、機会があったら今度探してみることにします。


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