Index

 
英雄の条件
監督:ウィリアム・フリードキン
2000年8月12日(新宿東急)

 それは米国軍人であること



 日本の伝統的な怪談話の類が、小規模な共同体内部、あるいは個人間の恨み辛みをその原因としているのに対して、西欧のそれは、あくまでも神と悪魔、つまりはキリスト教的二元論に収束する対立がその原因となっています。物語的には決着がついても、しかしそれはあくまでも一時的なもの、その対立は「最後の審判」の日まで延々と繰り返されるのです。ウィリアム・フリードキン監督による『エクソシスト』という有名なオカルト映画も、そんな「局地的代理戦争」を描いたものの一つ、些かの視覚的刺激を以てそこに展開する物語も、やはり我々には馴染みの薄い、しかし世界的には有名な二元論に支えられてのものに他なりません。
 フリードキン監督の『エクソシスト』の二元論がキリスト教的な、およそ「聖書」に依るものならば、その同じ監督による『英雄の条件』に於いては、「交戦規定」を根拠とた二元論が扱われています。宣伝文句にも謳われている「英雄か、殺人者か」というのがそれです。もし仮に「交戦規定」を根拠とせず、例えば「如何なる理由があるにせよ、人を殺した人間は須く殺人者と認識されるべき」といった類の理屈に従うならば、結論はまた別のものになる、というより「物語」自体が成立しなくなってしまうわけで、従って此処ではあくまでも「交戦規定」を根拠としているところが肝心と言えるのでしょう。そこに於いては「聖書」と同様「善悪」の基準は明瞭、それを疑ってしまうと、やはり物語自体が極めて陳腐なものに見えてきてしまうはずです。
 しかし、そもそもこの物語は、現実に殺人を犯した主人公の善悪を問うものなどではなく、何故ならば、その基準に照らし合わせた場合の結論を観客は予め教えられている故、彼が「英雄」であることなど分かり切っているからです。従って、そこに物語が成立するのは、あくまでもそれを裏付ける証拠が隠蔽されてしまい、その分かり切っているはずの結論に到達するために些か余計な労働がそこに要されるため、つまりは、その労働の過程こそが物語なのです。もし仮に、物語をもう少し分かり易く、いわば「面白く」するつもりならば、例えば、争点となる主人公の動作を予め曖昧なものとして観客に示し、その善悪自体を最後まで(観客に)悟らせないようにするか、あるいは、この物語では重要な証拠となるビデオテープを単に「隠す」だけではなく、物語のかなり早い段階で完全に消滅させてしまい、それを観客にも目撃させているのですが、そんなことはせずに、あくまでも何処かに「隠す」程度に止めて、最後の最後にそれを軍事法廷の場に持ち込んで「これが証拠だ!」と、ありがちな「逆転劇」でも演出した方が余程効果的だったはずです。しかし、敢えてそのような分かり易い物語を選択しなかったのは、やはりその「労働」をこそ観客に目撃させたかったということに相違なく、それによって観客に思考の余地の残したということなのでしょう。
 この作品が『エクソシスト』の二元論とは些か趣を異にしているのは、監督自身がその価値判断の基準となるものを先ず疑っている、「交戦規定」を絶対的なものとして容認していないことにあります。しかし、だからといって、予めその姿勢を示したのでは、やはり物語自体が茶番に終わってしまいますから、絶対的な証拠を完全に隠滅するという、物語の常道からは些か逸脱してた方法を以て、そこに問うべき「是非」を生じさせたということなのでしょう。既述のような「面白い」物語では、そこにある種の錯覚が生じてしまい、観客から「それを疑う余地」すら奪いかねないのです。姿勢はあくまでも曖昧に、所詮は娯楽映画に過ぎないものに「思想」を持ち込むのですから、そうならざるを得ないのは致し方のないことなのでしょう。物語のラスト、カメラはおよそ意味ありげな視線を以て、たった今その主人公を「英雄」と見做した場所が、所詮は「軍事法廷」に過ぎないことを改めて観客に教えます。監督の「意志」はそこに明らかなのです。

 直訳すればそのものズバリ「交戦規定」となるのがこの作品の原題、『英雄の条件』という「如何にも」といった感じの邦題は、それだけで劇場に足を運ぶ理由を消滅させてしまいかねない趣味の悪さ…、と、作品を観るまでは思っていたのですが、あるいはこの邦題は実に気の利いたものなのかも知れないと思い直しています。「英雄の条件、それは米国軍人であること」と、そんな皮肉が込められているようにも、あるいは、もう少し意地の悪い人間ならば「条件付きの英雄」とでも、穿ち過ぎでしょうか?

 戦場の場面は手持ちカメラを利用した「ニュース映像風」の撮影、そこにリアリスムを追求する場合の常套とも言えます。そもそも、私を含めた観客の殆どは実際の戦場になど足を運んだことがないわけですから、如何なる映像であれ、軽々に「リアル」などとは断言できないはず、しかし、それでもそれを「リアル」と感じてしまうのは、我々にとっての「戦場」が、あくまでもブラウン管越しに目撃するに過ぎないものである故、ニュース映像が即ち「現実」なのですから、それを模した映像もまた「現実的」と認識されてしまうわけです。その意味に於いて、そういった手法は至って敗北主義的、余り好きな映画ではありませんが、『プライベート・ライアン』のそれの方が、それが「リアル」かどうかは別にしても、「挑戦的」であることは間違いありません。
 しかし、銃弾を受けた途端に体中が真赤になるという「演出」はこれまでに余り観たことがないのですが、実際のところはどうなのでしょう。如何せん生まれてこの方銃弾など浴びたことがあないものですから、今一つよく分かりません。そう言えば、ペキンパー風の「スローモーション」もありましたか。

 公開初日の午後にしては全体の3分の2くらいが漸く埋まっていた程度、それでも興行的には成功の部類なのかも知れません。比較的年輩の男性が多いようにも感じられたのですが、「軍隊」での「男の友情」を主に扱った女気のない作品では、そうなってしまうのも致し方のないことなのかも知れません。しかし、ウィリアム・フリードキンなんて名前を聞くのは随分と久しぶりのような、その名前が、私がこの作品を観るに及んだ唯一の理由でした。


Index