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ひまわり
監督:行定勲
2000年8月13日(シネマ・カリテ1)

 小さな世界の小さな共感



 まだ十代も半ばのある競泳選手が「私のこれまでの人生の中で」と発言して、良識ある大人達を赤面ならしめたのは数年前のことだったでしょうか。確かに、その表現自体は間違っていないのですが、彼女が生きてきたほんの十数年をして「人生」の語彙を当てるのに違和感を覚える人が多くいても何ら不思議はありません。「人生」とは振り返って始めてそこに生まれるもの、彼女に於けるそれは振り返るにも足りない年月、否、まだまだ振り返るような時期ではないのです。
 最近の比較的若い世代の傾向として、それと似たようなところがあるようにも感じています。数年前のことをして「懐かしい」と感慨に耽ってみたり、あるいはこの場で喩えて分かり易いと言えば「ウエブ日記」など、それを三十年後に読み返すつもり書いている人などおそらくはいないはず、ほんの数カ月後に、あるいは今日書いたことを明日読み返すためにそれはあるようにも思われ、それが悪いとは言わないにしても、そうやって少しずつ後ろを振り返りながら生きているようなのは、しかし、とても健全な生き方とは言えません。十代や二十代の若者には何かを振り返って反省する必要すらないというのに、ましてや感慨に耽るなど、私に言わせれば「そもそも日記など書いている場合か?」と、余計なお世話でしょうか?

 私と同い年の若手監督に「他に撮りたいものはないのか?」と、そんな苦言を呈したくもなったのがこの作品でした。二十代前半の若者達が集まって、手を伸ばせば届きそうな過去を探り当てて底の浅い感慨に耽る、勿論、何が変わるわけでもありません。予め意図されたこととして、全ては至って曖昧に、「死」ですら「不在」を装っています。天麩羅油が新聞の写真を隠し、錯乱した母親が遺影を隠す、彼女の存在はあくまでも誰彼が語る記憶によってしかそこに現れません。つまり、彼女は「不在」であるどころか、そもそもの存在すらが曖昧なのです。しかし、それとてやはり意図されたこと、全員の机に並べられた「ひまわりの種」がそれを物語っています。誰彼の記憶を頼りに再現される彼女の数日間にしても、そこに明らかとなるのは限られた時間内に於けるその「行動」だけ、彼女の本質に関わる何かが素描されるわけでもありません。つまり、彼女は特定の誰かなどではなく、あくまでも抽象化され、(そこに共感を見出し得るある種の人達によって)シンボライズされた存在、あるいは、監督の思い込みによって一般化された「初恋の記憶」それ自体なのです。
 さて、今さらそんなものを掘り起こして映像化する、誰がと言えば、それは二十代前半の主人公であり、三十代になったばかりの、私と同い年の監督が、です。十代後半から三十代前半の人間がこの作品を観れば、そこに描かれている風景に何らかの共感を得るのかも知れません。実際、私自身も忘れていた記憶、そこにあったはずの風景を思い出しました。しかし、果たしてそれがどれほど有意なことなのか、黒澤明監督の『生きる』に描かれていた世代の話ならともかく、過去よりも未来の方が余程長いはずの世代が、劇場公開用の第一作目としてそんな作品と選び、垂れ流されたそれを底の浅い共感を以て阿房面で眺めるのなど、憂うべくは日本映画の未来ばかりとは言えません。確かに、映画としての質だけを問えばそんなに悪い作品でもなくて、大して期待もしていなかったわりには十分に愉しめるものでした。否、しかし、だからこそ言いたいのです、「他に撮りたいものはないのか?」と。

 今どきありがちな「雰囲気だけの映像」を見せられるのかと用心していたのですが、冒頭の(多少変則的な)「肩越し切り返しショット」を観るに及んで、案外そうでもないことを理解しました。予定調和的なフィックスや手持ちカメラによるバスト・ショット(以上)の多用、時折意図的な「手ぶれ」など発生させていたりもしましたが、比較的オーソドックスな映像と言えるのかも知れません。機械仕掛けのようにはしゃぐ子供とか、白線の描かれる校庭を捉える俯瞰ショットとか、何らかの引用と思しきも幾つか、当然と言えばそうなのかも知れませんが。尤も、最後の砂浜の場面は些か「スタイリッシュ」な、私に言わせれば、実に「イヤな感じ」の映像が、物語的な必然性を最後まで感じさせなかったあの「人数」は、「全員でボートを押す」カットの見栄えを良くするためだけに捏造されたのではないかとすら疑いたくなりました。また、回想(妄想)シーンでの音楽の煩さには辟易、安っぽいセンチメンタリズムをさらに加速させていました。何れにせよ、そもそもが曖昧な「何か」を描いているに過ぎない作品ですから致し方のないことなのかも知れませんが、全体にフワフワと些か「質量」に乏しい感は否めませんでした。

 小さな世界の小さな共感、所謂「ミニマル」が最近の流行とは言え、例えば、欧米の然るべき作品ならば、そう見える背景にも宗教や人種の問題が隠されていたり、そこに何かが「在る」のですが、此処に於いては表層を撫でるほんの少しの心地よさ以外に「何もない」ようにも、今どきの若者文化を象徴していると言えば、そうなのかも知れず、「私小説」が持て囃されてきたもう少し幅の広い文化がそこに再現されていると言えば、やはりそうなのかも知れません。

 上映開始一時間前に整理券を貰っておいたところ、どうやら私が一番目だったよう、しかし、それからの一時間でどれほども整理券が配られなかったのか、小さな劇場にも関わらず客は疎ら、まあ、このテの作品は極端に混んでいるかその反対かの何れか、残念ながら後者の方だったということなのでしょう。一人で来ている男性が殆ど、所謂シネフィルか、自主制作映画でも撮っているような連中に違いありません。何故か年輩の男性もチラホラ、出演者の親戚の方でしょうか?


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