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監督:阪本順治
2000年8月19日(テアトル新宿)

 停滞から移動への変容



 現実逃避を「現実の逃避」によって解消するというパラドクス、否、そもそも逃亡を重ねれば重ねるほどにも「物語」はむしろ「非現実的」になっていくわけですから、既にして大いなる矛盾を孕んでいるとも、しかし、それが「映画」というものでしょう。

 映画的思考の始まりが「移動/停止」の空間的運動に拠るものだとして、此処に於いては、しかし「移動」を伴わない運動によって、勿論、それは「停止」でもなく、敢えて言うならば「停滞」、それが如何にも「映画的」な運動によって導入されているところがこの作品の非凡なところではないでしょうか。今どき足踏みのシンガーミシン、何らの移動をも伴わない運動は、しかし、例えば自動車が停止したり、列車が動き出すのと同様の明快さを以て、映画的思考を目覚めさせます。それが物語後半以降の「自転車」に呼応しているのは言うまでもないこと、多少勘の良い人間ならば(その導入部分を観ただけで)その「動かない運動」が、何れ軽快なる移動を約束する装置を獲得するであろうことを予見し得たに違いありません。「停止」と「停滞」は似て非なるもの、前者が運動の終わりと次なる運動への予感であるのに対して、後者はあくまでも運動の過程、それは「移動」を伴わない運動であり、ミシンを踏む足とその音は、そんな状況を至って「映画的」に表現し得ているのです。
 停滞から移動を伴う運動へ、それが一つのクライマックスを迎えるのは、幾つかの場面がカットバックされた「自転車」のシークエンスです。緩やかな坂道を軽快に下るその足は、もはやペダルを踏むことすらなく、まるで流れるようにスクリーンを横切っていきます。そして、そのシークエンスの終わりに於いて、ペダルを止めた足、つまりそこにもたらされた運動の「停止」が、物語を新たな展開に導いていくのは、物語初期に於いては単なる「停滞」をしか示し得なかったその主人公が、既に映画それ自体を運動させ得るほどにも成長したことを我々に教えるのです。この「停滞」から「移動」への運動の変容(運動が生起するのではなく、あくまでも予めあったその質が次第に変化するのです)こそがこの作品がもたらす至って良質な快楽、「映画を観た」と実感する得難い瞬間です。

 私見ながら、「自転車に乗った女性」がこれほどまでに「映画的」であり得るのは、やはりフランソワ・トリュフォーの功績、藤山直美をしてすら、例えば『あこがれ』のベルナデット・ラフォンを想起させるという、勿論、私が指摘するまでもなく、映画に於いては既に記号化されているにも等しいある種の「表徴」ですから、此処に於いてのそれが他でもない「自転車」であるというのも、おそらくは確信犯的なものに違いありません。とにかく、スクリーン上のそれは実に魅力的、やはりその運動に於ける「足で踏む」というフェティッシュな動作が何らか関係あるのでしょうか。
 尚、その「自転車」のシークエンスに於いては、スパイク・リー監督によると「キューブリックが発明した」らしい手法も用いられていました。

 テレビドラマのように低予算の場合、例えば、室内の場面を撮るにしても、ロクなセットを組めなかったり、あるいはそもそもセットを組むことすらできず、マンションの一室など借りて撮影することもあるようで、如何にも「テレビ的」なクロースアップが多用されてしまうのは、そういった制約に因るところが大きいようです。
 テレビよりは予算に恵まれている映画に於いては、例えば、小津安二郎監督など、実際には必要ない側の壁面にまで拘っていたようで、時としてそれを強引に捉えようと些か奇を衒った撮り方までしていたそうなのですが、まあ、それは極端な話にしても、さすがに室内セットを組めないほどの低予算というのは、大手資本の映画の場合まずあり得ないことでしょう。それでも、本来の日本家屋いうものは欧米のそれに比べて空間的に狭く区切られていますから、幾らセットとは言え、極端にカメラを引いて撮ったりすると如何にも嘘臭い感じに、どうしてもロングショットで撮りたい場合は、隣の部屋や廊下にカメラを置いて覗き込むような感じで撮るのが多いようです。勿論、実際には必要のない隣の部屋や、壁の裏側までキチンと作れるのは、予算に余裕があってこそのものなのでしょう。あるいは、ローアングルによる撮影というのも、本来狭いものを比較的広く見せるのには有効、尤も、賃貸物件の広告でもありませんから、本来狭いものを広く見せようとすることが必ずしも重要とは限りません。この作品に於いてはむしろ狭い空間をより狭く見せようとしているフシがあって、例えば、母親の葬儀の場面など、やや縦長の狭い空間を俯瞰気味に捉えるという、息が詰まりそうな構図になっています。迂闊な人なら転げ落ちてしまいそうな急な階段に狭い路地の小さなスナック、そして「狐祭り」の小さな円、それらがある種のリアリスムの追求であるのと同時に「移動」を促す空間(例えば海)と対比を為しているのは言うまでもないこと、あるいは「停滞」もまた「促されている」ということなのかも知れません。

 さて、物語を決して「閉じる」ことなく映画を終わらせたこの作品、最後の場面で遠くに漁船のようなものが見えているのですが、そこに何らかの「明るさ」を発見し得るとすれば、やはりそれがあるからこそではないでしょうか。あるいは監督の「良心」とでも言うべきか、それは至って楽観的な「移動の終わり=停止」を我々に教え、その運動が、それまでの物語がそうであったように、やはり「移動」と「停止」を繰り返しながらその後も続いていくという、そんなことが示唆されているように思われます。「停止」を予感させない運動は、相対的に「動かない運動=停滞」と同様、狭い部屋に閉じ籠もってひたすらにミシンを踏むのと何ら変わりがないのです。

 公開から既に一週間、午前中は「アンパンマン」が上映されている劇場では臨時措置として整理券が配られるほどの盛況ぶりでした。そもそも公開規模の不当な小ささにこそ間違いがあるという話はさておくとしても、しかし、その混雑の最大の要因がコマ劇場から大挙して移動してきたオバハン連にあったというのは、私には予想できなかったことでした。関西での同様の混雑は東京の比ではないとか、藤山直美に象徴されるある種の文化とは殆ど関わらずにこれまでを過ごしてきた私にとっては、その「パワー」を改めて認識させられたといったところですね。


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