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イギリスから来た男
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
2000年8月20日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 その傍若無人な所為を



 福永武彦の文学作品が「実験的」とも評されてしまう所以は、その「時間軸」の扱い方にあります。例えば、『忘却の河』に於いて、第三人称代名詞での記述よってのみ差別化された「過去」の断片を「現在」の中に唐突に紛れ込ませてみたり、また、同一の時間軸に於ける物語を家族それぞれの視点から描き、それらを各章に振り分けたり、前者のそれなど特に、その不親切さの故に、あるいはそこにある種の「難解さ」を感じてしまう読者もいるのかも知れません。しかし、これを映像表現に置き換えてみると、実はどれほどの難解さを伴うものでもなく、(映像表現に於いては)至って在り来たりなものに過ぎないことが分かります。彼独自の第三人称代名詞による「過去」の記述は、カラー映像に於いては黒白のフラッシュバックを以ていとも簡単に実現され、それが如何に唐突に出現しようとも、それを難解と感じる人などいないはずです。また、同一時間軸を多面的に映すのなど映像表現に於いては実に初歩的な動作、時間軸の「脱/再構築」にしても、例えばタランティーノ監督の『パルプ・フィクション』がそうであったように、観る人によっては多少の分かり辛さを伴うにせよ、しかし、今どきそれを「実験的」という人間などおそらくはいないはずです。あるいは、福永武彦が『死の島』に於いて実践した「白紙頁」という至って大胆な試みにしても、それを映像表現に置き換えるに於いては、どれほど斬新な手法をも必要とされないに違いありません。
 これは即ち、映像表現がこと「時間軸」の扱いに於いては、より自由であることを示唆するものであり、そして、何よりも肝要なのは、その自由さが既に多数の目撃者によって許容されているということです。映像表現がその自由を獲得し得た背景には、それがそもそも「時間」に対して極めて不自由な「制約」を受け入れざるを得ない性質を有していた故に発明された「モンタージュ」という、他でもない「時間軸」を再構築する技法を中心に発達してきたことがあると言えるのでしょう。

 例えば、『パリ、テキサス』に於ける「ホームビデオ」の引用すら後悔しているというヴェンダース監督のように、映画に於けるその特権的な自由さをむしろ疎ましく感じてしまう人もいるようなのですが、しかし、私はその本来的自由さを駆使して、巧みに「時間軸」を操作する試みが何よりも好きです。「映画」に於ける「時間」などその虚構性の最たるもの、然るべき論理の裏付けとそれに付随する技術がそこにあれば、何をどう弄ろうが、所詮「現実」には程遠いものであることに変わりはありません。福永武彦のテクストに垣間見えるのは、映像表現が既に獲得しているその自由さに対する嫉妬心、今さら謙虚であろう必要など何処にもないのです。

 そこには謙虚さの欠片もなく、およそ傍若無人な所為を以て「時間軸」が操作されている、それがこの作品、『イギリスから来た男』です。物語は至って単純、或る男が或る理由から或る男を追い掛けて追い詰めるという、それだけの話、その「単純さ」が確信犯的なものであることは言うまでもありません。この作品に於けるソダーバーグ監督の本意はあくまでも「時間軸」の操作にこそ、それを妨げる得るものであるならば、「物語」とて例外なく排除の対象となってしまうのです。その操作の必然性? そんなものを問うことにどれほどの意味があるとも思えません。確かに、脚本の段階で既に決定されていたというそれらを何らか論理的に説明することも可能なのかも知れませんが、それを了解したところで、しかし、我々がスクリーンを介して遭遇し得る「快楽」を此処に差し出すことが能うわけでもありません。敢えて言うならば、そこに在るのは「時間軸」とそれに沿って移動する「空間」の再構築であり、「既に在る」ものを何一つ損なわない周到さです。何れにせよ、此処に於いて称賛すべきは監督のその傍若無人ぶり、「映画」が既に獲得している「自由さ」に決して及び腰にならないその気概です。切断されたフィルムを順当に並べ替える、その「自由さ」を抛棄しさえすれば、彼は「チャイニーズ・シアター」に手形を残すことだって能うにも関わらず、です。

 些か凡庸な表現ながらも、この映画はしかし「格好良い」の一言に尽きます。タイトルバックで「フォーカス・イン」するテレンス・スタンプを目撃するだけでも既に十分な価値が、巧妙に「脱/再構築」されたフィルムは、マサに映像表現の、それ以外の何ものにも期待し得ない「快楽」をもたらしてくれます。「映画」に於いては、さて、それ以外に望むべき一体何があるというのでしょう?

 公開二日目、日曜日の午後にしては観客も疎ら、この後『エリン・ブロコビッチ』という興行的に成功したはずの作品を撮った監督の意欲作の割には、どれほども人が集まったりはしないようです。やはりアレはあくまでも「ジュリア・ロバーツの主演作品」というのが一般的な認識、まあ、当たり前と言えばそうなのかも知れませんが。そう言えば、比較的外国人(欧米系)の客が多くいて、日本人が少しも笑わないようなところでゲラゲラと笑っていたりしたのですが、おそらくは脚本の細部に(アメリカ人から見た)イギリス人の堅物ぶりを茶化した台詞や表現が多くみられるのでしょう。


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