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パーフェクト ストーム
監督:ウォルフガング・ペーターゼン
2000年8月25日(テアトルサンク5)

 映画興行の深刻な現状



 所謂「ディザスター」や「パニック」といった類のジャンル映画、特にその結末に「悲劇」が用意されているものに於いては、それを促すべくのある種の「論法」があるようにも思われます。単純な話、事故や災害がジワジワと迫り来る過程に於いて、運悪くも後にそれに遭遇してしまう複数の人物を、その何気ない日常生活の場面などを介して観客が感情移入できるようになるくらいの丁寧さで「説明」するというのがそれ、それがあってこそ「悲劇」もまた増幅されるというカラクリです。「あんな善良な人間がよもやサメに喰われてしまうなんて」と、そんなことを思うのも、周到な「説明」を見せられているうちに何となく感情移入してしまっているからに他なりません。
 その意味に於いて、この『パーフェクト・ストーム』という映画は如何にも不出来な作品、一部登場人物に於いては、彼の帰還を待つ婚約者との関係を以てその「説明」が為されているとは言え、しかしどれほどのものでもありません。ジョージ・クルーニー演じる船長に至っては、離婚した妻の元にいる娘の写真と同僚の女船長との関係がホンの少し語られているだけ、感情移入どころか「自業自得」と思う人がいても何ら不思議はありません。そうは言いながらもしかし、この作品がそんなに悪いものでもないと思うのは、そもそもこの作品を「ディザスター」とジャンル付けすることが間違いである故、何らかジャンルを当て嵌めるのならば、それはもっと別のものになります。

 例えば、戦場での場面を中心とした少し旧い戦争映画に於いて、そこに登場する人物はおよそ「戦うこと」あるいは「生き残ること」自体が目的化されており、「何の、誰のため」ということが等閑に(精々「国家」や「イデオロギー」といった抽象的大前提が語られるに止まります)されていたりもします。また、後に凶弾に屈することになる人物群にしても、しかし、その人物像が語られるのはあくまでも戦場に於ける動作を介してのみ、何処かにいるのであろう彼の若妻がスクリーンで涙を流すこともありません。それは西部劇の無頼漢やクリント・イーストウッド扮する刑事にしても然り、彼らに如何なる背景があり、何のために戦うのかなど、誰も問うたりはしないのです。この作品に於けるアンドレア・ゲイル号の船員達もまた同様、「何の、誰のため」と問うまでもなく「海に在ること」、嵐に遭遇しては「嵐を乗り切ること」それ自体を目的としてスクリーンに在る存在として理解すべきなのです。仲違いしていた船員同士が小さな事件を経て信頼を深め合ったり、あるいは、若い船員が船長の姿を見て成長していく様など、まるでイーストウッド監督の映画でも観ているような感じ、そこに語られる多くのことがそのジャンルを見事に踏襲していると言えるのです。ジョージ・クルーニーのそれはクリント・イーストウッドやジョン・ウエインが演じてきた伝統的な「タフガイ」であり(彼の俳優としての存在感がそれに耐え得たかどうかという問題はこの際無視するとして)、本来、何らの「説明」も必要としないはずの人物なのです。彼らをして「感情移入」などという如何にも安っぽい動作に至る観客など一体何処にいるというのでしょう。そして、その感情移入を許さない無頼漢達が「自業自得」などと言われたりしないのは、彼らが決して無様な「失敗」などしない故、そうです、もしこの作品に決定的な蹉跌があったとするならば、それはそのテのジャンル映画が果たすべきを見事に裏切ったことにこそ、「ならばディザスター的なメロドラマを」と感じてしまう人がいるのも、あるいは致し方のないことなのです。

 それでもしかし、兵士が戦場に在り、西部のならず者がうらぶれた酒場に在るように、アンドレア・ゲイル号が他でもない「嵐の海」をその唯一の所在としていたことは実に好ましいことのように思われました。「帰るべき場所」に帰り着けないのは単なるメロドラマ、それはしかし、何の理由を問うまでもなく「そこに在るべき」が在ったと、それ故にこそその「戦い」それ自体が、あるいは感動的ですらあり得たのではないかと、そんなふうにも考えています。

 CG合成になどまる興味がないとは言い条、しかし、そんなことを言っていては、今どきのハリウッド映画など少しも語れなくなってしまうのかも知れません。映画は必ずしも疑似体験の手段ではありませんが、もし仮にそれに重きを置くのならば、そういった技術の進歩は「映画」の将来に大いに寄与することになるのでしょう。そのヘンの技術的なことはサッパリですが、それなりの迫力はありました。尤も、もっと原始的な「カメラ」の話をすれば、そちらは至って凡庸、良くも悪くもハリウッド式娯楽大作でした。勿論、過不足なく(映像による)「説明」が為されているという意味に於いては、何の文句もありません。

 これは観たのは帰省中でした。おそらくは余所に新しく「シネコン」ができた影響だと思うのですが、以前は別々の場所で別々の名前を持っていた幾つかの劇場が、相変わらず別々の場所にありながらも、しかし名前だけが統合され、数字によって差別化されるものに変わっていました。経営の方もかなり苦しいのでしょう、「映画の日」はもとより、曜日によって各種サービスが設けられおり、私が行った金曜日は偶々「メンズデー」と、紛れもない男性である私はこの作品を1000円で観ることがでいました。それでも観客が私を含めて3人しかいなかったという惨状に、地方に於ける映画興行の深刻な現状が垣間見えたような気がしました。実家の近くに雨後の筍のように新しいビデオ屋ができていたのとは対照的です。


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