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ポール・ボウルズの告白
監督:ジェニファー・バイチウォル
2000年8月27日(アップリンク・ファクトリー)

 以下、そんな話を少々



 小説家が新たな作品を構想するとき、いまだ白紙のそれを如何にして埋めていくものなのでしょう。あらゆる創作に於いては、予めそこに「動機」というものが存在しているはず、小説家の場合ならば「何を書きたいか」ということが先ず念頭にあって、あるいはむしろ、それがあってこそ、ある種の必要に促されて作品が生まれていくものに違いありません。その必要を促すものは、例えば、社会的状況やもっと大括りな抽象的概念、物語それ自体やそこに登場させるつもりの人物、あるいは現実の体験等々、およそそんなところではないかと想像します。「先ずは舞台となる場所の風景を思い浮かべる。物語や人物はその後から」という発言が私を驚かせるのは、私の発想が至って貧困なのか、あるいはその作家の思考が些か特異なのか、何れにせよ、そこにあるのは私にはまるで想像もつかない「創造の過程」です。つまり、彼に於いてその創作を促すものは先ず第一に「風景」であると、あるいは画家のような発想なのかとも想像してみます。彼は「その風景が人物に如何なる影響を及ぼしていくのかということを考え、そこに物語が生まれる」とも、何よりも「異邦人」であることに快楽を見出した彼の発想の原点が、あるいはそこに隠されているのかも知れません。

 ポール・ボウルズの「風景」として誰しもが想起するのはやはりモロッコのそれ、果てしもない砂漠とその地平に溶け合う深い青空、その「言語活動」を除いてはもはや凡庸としか言い様のないこのドキュメンタリー映画もまた、そんな風景を捉えることから始めています。何が「凡庸」なのかと言えば、そもそも全編デジタル・ビデオで撮影されたその映像や(カメラによる)語り口が至って貧弱、やはり全編デジタル・ビデオで撮影されたヴェンダース監督の『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』などと比べると、その映像が語るものなど殆どないと言っても過言ではありません。そして、その「言語活動」に補完されても尚、観客としてそこに何かを発見し得る機会は、しかし、あくまでもその映画の外にある「言語活動」を予め了解している人間にのみ与えられているという、その「不親切さ」もまた、この作品がある人達にとっては不快なほどにも不完全なものである理由なのでしょう。従って、この作品を愉しむ、そこに何らかの価値を見出し得るのは、そこに在る「言語活動」の意味を、既に在る「言語活動」との関係性に於いて十分に了解できる人達に限られているとも言えるわけで、我々に何らかの選択肢が与えられているというより、「映画」の側が予め観客を選別している、そんな作品と言えるのかも知れません。そんな作品など別に珍しくもなく、例えばそれは「モーニング娘。」ファンと『ピンチランナー』の関係のようなもの、もし仮に、それが「映画」として如何に退屈なものであったとしても、しかし「モーニング娘。」ファンにとってそんなことは、その作品の価値を測る上に於いて何の意味も持たないわけで、また、それに属さない人間がそれをあくまでも「映画」として切り取って何か分かったような難癖をつけるのも実は甚だしい誤謬、何とはなれば、彼らはその作品によってそもそも「選ばれていない」存在である故、その作品を観ること自体が既に誤りなのです。勿論、そういうふうに発想すべき作品はある程度限られており、例えば『スリーピー・ホロウ』という作品は決してジョニー・デップのファンを「選んでいる」わけではありません。

 ただ、多くのドキュメンタリー映画が、およそ「期待された物語」に過ぎないことからすれば、何らの期待にも応え得ないこの作品は、その意味に於いてむしろ「誠実」なものとも理解できます。あるいは、この作品に於いてそれを許さなかったのは、その被写体の存在感、彼自身による紛れもない「言語活動」が、安易な「物語=言語活動」を遠ざけた結果と言えるのかも知れません。何れにせよ、監督による「言語活動」は、明らかに被写体のそれに圧倒されています。

 さて、そのように前置きしてしまうと、この作品の「感想」として私がここに語るべきも至って個人的なものにならざるを得ません。否、むしろそのための「予防線」としてそう前置きされたとする方が余程正直な言い草なのかも知れません。それは、やはり『ピンチランナー』を例にとれば、その感想として「なっちは何かデブになってたけど、やっぱサイコー」と書くのと同じようものです。以下、そんな話を少々、ボウルズやバロウズに興味のない人にとっては、この映画がそうであるように、おそらくは退屈極まりないものに違いありません。

 バロウズが「そこには何も書かれていない」とボウルズの自伝を酷評すれば、ボウルズは「『ビート』の連中は文法を滅茶苦茶にした」と、95年にニューヨークで再会した彼らとギンズバーグの3人による「座談会」は、実に興味深く、また愉快なものでした。バロウズは2年後に、ボウルズはその2年後に何れも他界、そのときの二人は既に八十を過ぎており、バロウズは頻りに「体調が悪い」と、それでもしかし如何にも「ビート」の御大らしくブツブツと捻くれた言辞を吐き出すサマは、微笑ましくもあり、また壮絶でもありました。バロウズが「観ていない」というベルトリッチ監督の『シェルタリング・スカイ』に話が及ぶと「アレは最悪ダ!」とその原作者が、本当の話かどうかは分かりませんが、彼が別の原作を薦めたところ、ベルトリッチは「あの本は有名だから、あれじゃないとダメなんだ」と、そこに商業主義的な動機が第一義としてあったことを暴露して批判もしています。ボウルズは『シェルタリング・スカイ』をして「あれはすべて頭の中から生まれたものであり、そもそも視覚化することなど不可能」とも発言しているのですが、そんなことを言ってはミもフタもないとは言い条、あるいは多くの「原作者」が思っていることを率直に代弁した発言なのかも知れません。彼にしてみれば、そこに文学とは表現媒体を異にする「映画」の限界を指摘するという、あるいは単なる「偏屈」なのかも知れませんが、そこにテクスト表現者としての衰えない「気概」を感じました。さて、バロウズはクローネンバーグ監督の『裸のランチ』に対してどのような態度を示しているのか、そのことにまで話が及ばなかったのは少し残念でした。

 そんな話を続けようと思えば幾らでも続けられるのですが、しかし、余り意味があるとも思えないので、やはり止めておくことにします。何れにせよ、ポール・ボウルズに興味のある方には劇場でこれを観ることをお薦めしておきます。繰り返すようですが、興味ない方にはまるで意味のない作品です。尤も、この作品に彼の文学を探る上での資料的価値がどれほどあるのかは分かりません。バロウズが彼の自伝をして「そこには何も書かれていない」と評したのと同様、この映画の中で彼がどれほどのことを語っているというわけでもありません。彼にしてみれば自分自身のことを多く語るのは「はしたないこと」のようで、それをバロウズ流に翻訳すれば「至ってニューイングランド的」と、何れにせよ、私のような「ミーハー」を喜ばせるだけの作品と言えば、そうなのかも知れません。つまりは「ピンチランナー的」と、私流の翻訳です。

 これが上映されているのは所謂「オフ・シアター」という空間、渋谷の外れにある雑居ビルのワンフロアがそれ、40脚ぐらいのデッキチェアが並べられており、小さなバーカウンターもありました。大人1500円でワンドリンク付き、私は100円の追加料金を払ってビールを注文しました。上映が始まると、さっきまでカウンターでドリンクを出していた若い女性がスススと映写室に、映写技師に早変わりかと思いきや、単にビデオの再生ボタンを押しに入っただけのようでした。


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