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ワンダー・ボーイズ
監督:カーティス・ハンソン
2000年9月2日(新宿武蔵野館)

 増殖し続けるテクスト



 日常的に非常に馴染み深い光景が、しかしある種の「異常さ」を表徴するものとしてスクリーンに現れると、そこに驚きを発見するのと同時に気後れもまたしてしまいます。トビー・マグワイア扮する「ワンダー・ボーイ」の部屋から発見された「貸出カード」付きの書物というのがそれ、彼の部屋にあるのと同じくらい、私の部屋にもあるのです。自身の心当たりをして直感的に「盗んだ」と思った私は、その後の「彼の祖父は莫大の延滞料を払わされることになるだろう」という台詞から、それがあくまでも借り倒されたものであることを知らされて、ますます気後れしてしまいました。それが「借り倒し」に過ぎないのならば、「ワンダー・ボーイ」にしては至って正常な動作、その中途半端な加減は彼の「奇行」を描く他の場面にも指摘できる、と続けてしまうのは、まるで自身の動作を正当化するものであるかのようで、やはり気後れを感じてしまいます。それにしても、マイケル・ダグラス扮するトリップ教授は何故それを当たり前のように「借り倒し」と判断したのでしょう。私がそうしたように、そもそもの「手続き」すら無視している可能性も否定できないはずです。
 さて、そこで重要となるのはその「貸出カード」の有無、このように「貸出カード」が残されたママならば、それは明らかに盗品と言えるのですが、しかし、もしそれが残っておらず、単に「貸出カード入れ」がそこに見えているだけならば、「借り倒し」の可能性もあるということです。私がこの映画のそれを「盗まれたもの」と判断したのは、そこにカードが残されていたようにも見えたからなのですが、あるいは私の記憶違いだったのかも知れません。それを確認するためだけにもう一度劇場に足を運ぶ気にはとてもなれませんから、もしこれを読まれた方で、これからこの映画を観るつもりの方には、そんなところを気にして観てみることをお薦めします。その結果を私に知らせてくれれば尚嬉しいとも付け加えておきましょう。
 ちなみに、そんな動作から遠ざかって既に何年にもなる私が、当時その動作に及ぶに於いてはある一定の「礼儀」を弁えていたことを補足しておきましょう。事に及ぶ前には必ず「貸出記録」を見て、その書物が(私以外の人間に)如何に必要とされていないかということを確認してから、そういう書物だけを選んで鞄の中に入れていました。どうせ誰からも必要とされていない書物、私の書架にその所在を移した方が余程意義深いと、そんな屁理屈を念じていたわけです。しかし、それと同様の屁理屈はこの作品に於ける「マリリン・モンローの上着」にも示唆されている、などと言ってはやはり自己弁護が過ぎるのでしょうか?

 妻の「喪失」を告白する主人公のモノローグから始まるこの物語を端的に表すれば、それは「喪失と獲得の物語」ということになるのかも知れません。物語の持続を約束するものが既にしてそう、その告白に始まり、ジェームズの鞄、学長の飼い犬、マリリン・モンローの上着、ジェームズ本人、主人公の自動車、主人公の原稿、あるいはピストル、それらが何らかのカタチで失われることが物語を動作させ、一つが見つかればまた別の何かが失われて、という具合に、そんな「ドタバタ」が繰り返されることによって物語は持続されていくのです。一見して「ワンダー・ボーイ」の奇行が物語を展開させているように見えるのですが、それはあくまでも表面的なこと、彼の奇行は物語的に「喪失」を促す一個の装置であるに過ぎません。
 ともすれば主人公のそれだけが重要視されがちなのですが、登場人物それぞれがこの物語を通じてやはり何かを喪失し獲得するというのは同じ、例えば、主人公の上司は彼の貴重なコレクションを失うことになるものの、その趣味をさらに満足させるものを獲得、編集者はクラディーを失ってジェームズを獲得、そして、単なる端役に過ぎない「ヴァーノン」ですら、彼の失った愛車を見事獲得するに至るのです(名前は失念してしまいましたが、大学の清掃員の青年が「グラス」を獲得することもまた記憶に止めておくべきでしょう)。主人公による「増殖し続けるテクスト」に於いてもまた同様のことが示唆されています。そこに於いては、他でもない「喪失」の不在が、何一つの運動をすら生起し得ない理由となっているのです。
 誰しもが簡単に了解するのであろうこの物語が示唆する「人生」に関するおよそ退屈な言語活動が、しかし、物語の持続を約束する至って映画的な運動と見事に呼応し、それによって示されているところにこそ、この作品の良さがあると言えるのです。あるいは犯罪にも類するある種の「凡庸さ」というものは、退屈な言語活動に腐心しこそすれ、しかしそれが「映画」である限りに於いて本来そこに「在るべき」を、まるで等閑にしてしまうのです。

 スクリーンに影を落とす光線と中間色をメインとした映像は、およそ「コメディー」の印象からは程遠いものです。あるいは脚本(字幕)の問題もあるのかも知れませんが、その「コメディー」にしても、積極的な「笑い」というより、むしろその物語が持つある種のシリアスさを回避するために配置されたものという印象も持ちました。それ以外の部分や方法論はまるで違うのですが、特に「コメディー」らしからぬスクリーンのトーンなど何となくウディ・アレン監督のそれを想起しないでもありません。それが予め計算されたものならば、そこに生じるのは「落差」ではなく、良い意味での「弛緩」、但し、例えば我々に特に馴染み深い「保存」という最後の「オチ」が、仮に積極的な「笑い」を意図してのものだとするならば、私には些かベタ過ぎて、そんなに面白いものとも思えませんでした。

 この映画の予告編ではジョン・レノンの「ウオッチング・ザ・ホイールズ」という曲がバックで流されており、あるいは極めて重要な意味を持つ引用のようにも思われたのですが、実際には他にも多数引用されている「名曲」の一つに過ぎず、しかも、何でもない場面でカーラジオか何かからボンヤリ流されているという程度の扱いでした。あるいは予告編に騙されて劇場に駆け付けた人も意外と多いのかも知れません。私もその一人です。

 そんなことにどれほどの価値も見出せないのですが、個人的な事情も重なって、結果的に公開初日の初回を観ることになりました。全体の半数が漸く埋まっていた程度の客席には、しかし「結果的に」という人ばかりではなかったようで、そういうことに特別な意味を感じている人か、あるいはそれを待ち侘びていたのであろう熱心な「映画好き」と思しきも少なからずいたようです。スクリーンがエンドクレジットに切り替わった途端、物凄い勢いで立ち上がる人が数名、それが固定されたものでなければ間違いなく後ろに倒れていたであろうほどの「乱暴さ」の意味するところは、彼らなりの意思表示、この作品に対する「態度表明」ということなのでしょう。今どきの程良く「教育」された観客、特に新宿武蔵野館でのプログラムを足を運ぶような連中は、エンドクレジットの最後まで座席を離れず大人しくしているもの、それだけに彼らの態度は際立っていました。私のような人間の眼には、何かが「空回り」しているようにも見えてしまうのですが、しかし、他でもない「映画好き」の一人として、愛すべき存在であるともまた思います。


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