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白い花びら
監督:アキ・カウリスマキ
2000年9月3日(ユーロスペース1)

 そこに「映画」が残ります



 ある人物が何かを喋っているとき、その人物にカメラを向けるというのが一般的な映画の作法です。しかし、よく考えてみるとそこにはかなりの無駄があるようにもまた思われます。20世紀末の現在、100パーセントに限りなく近い商業映画がそうである「トーキー」に関して言えば、その場合の「情報」はおよそ二元的に、つまり映像と音によって与えられています。従って、その「声」によって発言の主体が明らかである以上、情報提供という意味に於いては、実はわざわざカメラがその人物を捉える必要など何処にもなくて、また、比較的長い台詞を話す場合など、ホンの一瞬だけカメラがその人物を捉えさえすれば、カメラは最低限の仕事をやり終えて後は自由の身となるはず、いつまでもダラダラとその人物を映している必要などやはりないのです。それでも、そんな「無駄」が罷り通ってしまうのは、そこに然るべき根拠があるからでは決してなく、既にそれに慣らされてしまっている観客に阿るべくの、ある種の「悪弊」のようなものと理解すべきが妥当なのではないでしょうか。例えば、ジョン・カサヴェテスの映画が素晴らしいのは、そんな退屈極まりない悪弊になど容易に組みせず、何よりもカメラがその「自由」を全うしているからに他なりません。

 カメラが「自由」を獲得し、あるいはそれを抛棄した「怠惰」に陥るのは、しかし、そこに音声があるからに他なりません。サイレント映画に於いては、映画に不可欠な言語活動の殆どを映像が負わなくてはならず、従ってその自由もまた制限されます。つまり、どうしても説明的にならざるを得ず、その結果生まれたある種の「過剰」がエイゼンシュタイン的なモンタージュとも言えます。モンタージュをして映像の可能性を指摘する向きもあるようですが、しかし、理論化されたモンタージュというのはどれほども「自由」なものではありませんし、また、それなくして何らの言語活動をも果たし得ないというものでもありません。つまり、ロシア人の錆びた鋏でバラバラに切断されるのを待たなくては何らの「説明」をすら果たし得ないほど、カメラは無能ではないということです。ある種のモンダージュとは取りも直さず「意味の押付け」に他ならず、そこに言語活動の半分、音声が欠落していても尚「過剰」な存在なのです。

 もし単に「サイレント」を撮りたいだけならば、その映像がモノクロームである必要など何処にもありません。仮にそれがカラーであっても、そこから音声を排除すれば、やはり「サイレント」と呼ぶべきものになるはずです。確かに、映画史的な意味に於ける「サイレント」を模倣するという意味もあったに違いありません。しかし、此処に於いて企図されたのは、「映画」がその歴史の中で纏ってきたあらゆる「過剰」の排除、「色彩」もまた例外ではないということです。尤も、「色彩の排除」という試みは「サイレント」がそうであるほど特異なものでもなく、20世紀末の現在に於いても然して珍しいものでもありません。但し、例えば、少し前に流行った「セピア色」の使い捨てカメラのようなもので、ただ単に「雰囲気」を獲得するためだけにその「手法」も用いた唾棄すべき作品も少なくないことは指摘しておく必要があります。

 あらゆる「過剰」が排除されたはずのこの映画に於いても、しかし実に微笑ましい「過剰」が残されています。おそらくは1920年代頃のサイレント映画の作法を借りてのものだと思うのですが、カメラが捉えるもの自体が「過剰」、主人公の体型がまずそうですし、その主人公が何故か抱えて眠ってしまうあの不必要に巨大なスパナなど、その典型的なものと言えます。それはむしろその後に獲得された「過剰」と引き替えに失われていった類の「過剰」、些か懐古趣味的であるとは言え、そこにあることに然したる違和感もありません。
 自動車が「停止」することで当たり前のように悲劇が予感される如何にも「映画的」な映画、その自動車のエンジン音やドアを閉める音が「サイレント」を裏切っていることもまた、それが単なる懐古趣味でないことを示唆しています。

 さて、物語後半近くに現れる主人公の「髭剃り」から「バスを追い掛ける犬」に至るまでの一連のシークエンス、それはおよそ主人公の「決意」と「覚悟」が説明されている箇所なのですが、その一連のシークエンスがこの「私」をしてある種の生理現象を伴わせたという、誰よりも驚いているの私自身です。それは実に単純な映像の組み合わせに過ぎません。特に最後の「バスを追い掛ける犬」など、俗に言う「お約束」にも等しいものなのです。その直前に配置された「バスのタラップ」のカットが何故あれほどまでに美しいのか、「それが余りにも単純過ぎるから」としか私には説明できません。大仰と思うなかれ御同輩、私は真剣に悩んでいるのです、「私は今まで一体何を観てきたのか?」と。

 あらゆる過剰あらゆる饒舌が排除され、そこに「映画」が残りました。何かもっと上手くこの映画の素晴らしさを説明できる方法もあるのかも知れませんが、しかし、何れにせよ、此処に於いては私のこの退屈極まりない言語活動などどれほどの意味も持つものでもありません。この映画の沈黙はあらゆる饒舌を無効に、まさしく「偉大なる唖」です。

 観よう観ようと思って忘れていた映画、東京では間もなく公開が終わるはずです。そんな時期的なこともあってか、あの狭いユーロスペースが広く思えるほどにも観客は疎ら、私を含めて10人もいなかったのではないでしょうか。極端に小さな劇場での常として最前列に、そういう場所で前の人の後頭部が気になり出したら、とても映画に集中できなくなってしまうのです。また、最前列に座ると私自身が極端に深く腰を沈めることもできて私の無駄に高い座高が後ろの人の迷惑になることも回避できるのです。隣にはフェリーニ的な女性、ガラガラの劇場で何故か私の身体を圧迫し続けました。


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