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60セカンズ
監督:ドミニク・セナ
2000年9月9日(新宿グランドオデヲン座)

 スクリーンとの距離感



 以前、誰かが「ハリウッド映画がおかしくなったのは『フラッシュ・ダンス』以降」ということを書かれていたのを読んだことがあるのですが、この作品の制作はその『フラッシュ・ダンス』の成功で一躍脚光を浴びたジェリー・ブラッカイマーという人物。映画は好きで良く観るのですが、基本的に監督の名前以外憶える気がないので、この有名らしい人物のことも実はよく知りませんでした。これまでの代表作は『フラッシュ・ダンス』の他に『トップ・ガン』や『アルマゲドン』、確かに、ハリウッド映画をおかしくした張本人と言っても間違いないのかも知れません。こういう作品を観て、先ず想起するのはやはりロバート・アルトマン監督の『ザ・プレイヤー』という有名な映画、商業主義的に必要なパーツを一つ一つ組み合わせていって、工業製品のように生産されていく作品群、作家的な「創造」とはまるで縁のない世界です。

 私はこの作品のような、小市民的「大義名分」の裏付けを得て漸く「アクション」に至るような映画をとても退屈に感じてしまいます。ノーテンキに振る舞っているようで、しかし、そこには必ず「理由」が貼り付いているという、あるいはそのノーテンキが誰からも支持されるよう予め仕組まれていると表現しても良いのかも知れません。この作品の場合ならば、差し当たって「弟を助けるため」というのがそれ、それをある種の「免罪符」として、そこに在る「異常」を「正常」に、あるいは「非日常」を「日常」に、近年の退屈なハリウッド映画とは往々にしてそんなふうに仕組まれているのです。例えば、この映画の元になっているはずの『バニシングIN60』という70年代のハリウッド映画、そこに登場する自動車泥棒のプロフェッショナルは、あくまでもその行為自体を快楽としてその犯罪に至るのであり、「誰のために?」などというおよそ腑抜けた「理由」など作品の何処を探しても見つけることなどできません。彼の自動車に対するおよそ偏執狂的な性情、その「異常」は何らの誤魔化しもなく、堂として観客に示されるのです。それでいてしかし、彼は紛れもない「ヒーロー」としてそこに在り、ましてや彼の「異常」やその歴とした「犯罪」を誰も咎めたりはしないわけで、むしろ、その「異常」こそがそこに観客が望む「非日常」を出現させ、あるいは快楽の装置もとなり得るのです。確かに、ニコラス・ケイジ扮する『60セカンズ』の主人公も、セックスにも似たそんな偏執狂的な快楽に言及しはするものの、しかし、それは既にある「大義名分」にはどれほども及ばず、むしろ言訳がましくすら聞こえてしまいます。何よりも、盗んだ自動車の数だけ繰り返されるその場面に於いて、それは、如何にもMTV出身の監督が撮ったらしく、ただ単に映像として「格好良い」だけ、言葉ではセックスに喩えてはいるものの、映像として示されるそこには自動車とセックスするかの如きの異常なエロティシズムなど欠片も存在してはいないのです。「家族愛」のために「致し方なく」犯罪に至るに「腑抜け」に過ぎないわけですから、所詮は望むべくもないのです。

 近年のハリウッド映画に散見されるその類の趣向が、しかし、ある種の「倫理」を重んじる制作者側の一方的な押し付けなどでないこともまた明らか、あらゆる商業主義がそうであるように、それは観客の趣向の変化を大いに斟酌した結果でもまたあるに違いありません。ヌーベルバーグや(アメリカン)ニューシネマのそれは本来「アンチ=ヒーロー」として生み出された言わば「逆説的」なヒーロー、『バニシングIN60』の主人公にしても、その表層だけを捉えれば単なる犯罪者、その反社会性こそが(当時の模範的市民であった)観客のカタルシスを大いに満たしていたとも言えるのです。近年、その反社会性に執拗な予防線が張られてしまうのは、もはや観客がその勇ましい反社会性になど何も惹かれなくなったということです。彼らがスクリーンに求めるのは、自身やその「日常」にも何らかのカタチで発見できる、要は「共感」し得る何かであり、そこからは決して逸脱しないものの、しかし、それを出来るだけ大袈裟な「身振り」を以て示すような、そんなものではないかと考えます。この作品で言えば、「家族のために何かをすべき」というのは誰しもが共感し得ること、そこに展開する映画的な「非日常」は、しかし、決してその範囲を逸脱しないのです。ある意味に於いては、それはもはや「非日常」ですらないのかも知れません。そこに「無い」ものを求めるか、あるいは既に「在る」ものを再確認するか、その違いを端的に表すれば、そんなふうにも言えるのかも知れません。

 あるいはそんな「保守的」な世の中に、この私が嫌気を差しているというだけの話なのかも知れません。しかし、そんな趣向の変化が「映画」から何かを奪っているようにもまた感じてしまいます。重要なのは「反社会性」などでは勿論なく、ある種の映画に於けるスクリーンとの距離感、絶対的に遠い存在がそこに在るからこそ、私(あるいは誰か)は映画館という「非日常」に足を運ぶのです。そう考えてみると、その趣向の変化は、やはり「映画」を家庭に持ち込んでしまったあの装置がもたらしたのかも知れません。

 公開初日の午後ということもあってさすがに満席でした。立見が出ていたかどうかまでは確認しなかったのですが、私が観た次の回は立見の札が出ていました。この日は午前中に別の映画を観たせいもあったのかも知れませんが、途中でウトウトと瞼が重くもなってしまいました。上述の、この作品とは殆ど関係のない戯言を読んでいただければお分かりの通り、正直言って非常に退屈したのです。まだ観ていませんし、観るかどうかも分かりませんが、多分『TAXi2』ならば、これと正反対のことを書いたような気がします。作品の出来が良いとか悪いとかという話とは余り関係がないということです。私には「嫌いな映画」というのはなくて、この作品に対しても決して「嫌い」という感情を以て何かを論じているつもりはないのですが、しかし、そんな私にも「差し当たってこの世の中に存在する必要のない映画」と思うものは幾つかあって、これもそんな作品群の中に収めようかと思案している最中です。


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