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電話で抱きしめて
監督:ダイアン・キートン
2000年9月9日(シネマ・カリテ1)

 彼女の「仕事」は何処に?



 数年前のアカデミー賞で「最優秀作品賞」を受賞した『恋におちたシェイクスピア』という映画、確かによく出来た作品だと思うのですが、それを「監督の仕事」として考えた場合、何処までがそうで何処からがそうでないのか、今一つよく分からないところがあります。実際その同じアカデミー賞で「脚本賞」を受賞していることが示している通り、何よりも優れているのはその脚本、あるいは何処までが「脚本家の仕事」なのかと、そんなことを考えるわけです。例えば、映画に於いては然程珍しくもない技法ですが、そこで多用されている「台詞が一続きになった現実と虚構のカット・バック」の流暢さなど、その作品が「よく出来ている」と評される所以だと思うのですが、そのカット・バックの構成から既に脚本に指定されており、監督は単にそれに従ったに過ぎないのならば、その点に関して評価されるべきは他でもない脚本家なのですが、仮にその脚本が極めて「ベタ」なものに過ぎず、その構成を監督が再構築した結果がそのカット・バックならば、その点に関して称えるべきは監督ということになります。常識的に考えれば前者でしょうから、この作品が「監督賞」の逃したのも、(「脚本賞」を受賞している以上)道理というものです。

 個人的に、ウディ・アレン監督の作品に於ける優れたヒロインは、ミア・ファーローではなく、やはりダイアン・キートンだと、『電話で抱きしめて』を観た一番の理由も、それが彼女の監督作品だったからです。数年前のカンヌ映画祭で高評価を受けたらしい『想い出の微笑』は残念ながら未見なので、彼女の監督作品を観るのは今回が初めてなのですが、比較的「よく出来た作品」とは思うものの、しかし、何となく「脚本家の仕事」が大きい作品のようにも思われ、少し複雑な心境だったりもするわけです。「脚本賞」のノミネート記録を持っているウディ・アレンやビリー・ワイルダーの作品ならば別段頭を悩ませる必要もないのですが、今どき「作家主義」などという化石のようなものにしがみついている人間としては、やはり純然たる「監督の仕事」を以てそこに何らかを発見したいところ、それが全くないとは言わないものの、しかし、思い返して直ぐに浮かぶのは「監督の仕事」として論じるのには些か無理があるものばかりなのです。

 基本的に、ダイアン・キートンというのは余り「上手い」監督ではないのかも知れません。例えば、メグ・ライアン演じる次女が、父親が嘗て得意とした「嘘」を応用して病床の父親にやはり「嘘」をつくという、ある意味ではこの作品のクライマックスとも言える場面でのカメラの動作など、もう少し「上手く」やる方法があったのではないかと思いましたし、人物の動きを追ったカメラが、最後は決まってガラス越しに人物を捉えるというのもワンパターンです。また、一台の自動車に同乗すれば良いところを、それぞれ自分の自動車で病院に駆け付けるという場面にしても、その(脚本にその通り書かれていたのであろう)意図するところはそれら自動車(車種等)に表徴される三姉妹三様の「個性」を強調することにあったのだと思うのですが、駐車場に並べられたそれら自動車の捉え方がしかし如何にも中途半端というか、この作品は「コメディー」なのですから、多少は「下品」になっても、もう少し大袈裟にやった方が余程有意だったようにも思いました。
 総じて、比較的脚本に優れたこの類の作品は、ハリウッドにゴロゴロと転がっているのであろう「職業監督」にこそ撮らせるべき、そうすれば、おそらくは誰からも愛されるに違いない「凡庸なハリウッド映画」の一つとして、あるいは「作品賞」にノミネートされるくらいのものにはなったような気がします。勿論、他でもないダイアン・キートン監督が職業監督的なものを何より目指しているのであるならば、「彼女にこの脚本は多少荷が重過ぎた」とでも評しておけば事足りてしまうのでしょうが、個人的にはそういうふうには思っていないので、あるのかどうかも定かではない彼女の「才能」に期待して、次回を待つことにしましょう。今回の作品でも良いと思うところはありましたし。

 字幕で「日本車」と訳されていた部分、英語ではすべて「ハンダ(ホンダ)」となっていたのですが、アメリカで日本車と言えば「トヨタ」ではなく「ホンダ」ということなのかも知れません。また、同様に字幕で「ジョン・ウエイン」と翻訳されていた部分の殆どは「デューク」と、ある程度の「映画好き」でもなければ今どきの日本人には通じないそれも、アメリカでは今でも世間一般的に通用するということなのでしょうか?
 余談ですが、字幕では大概「ケネディー」と訳されるジョン・F・ケネディーの場合はその殆どが「ジェイ・エフ・ケイ」と発言されていますね。

 作品中使用されていたポール・マッカートニーの「ジャンク」という曲、私が知っているのとは少しアレンジが違っていたような気もしたのですが、あるいは単に私の聴き違いだったのかも知れません。

 公開二週目、土曜日の午前中という条件が良いのか悪いのかは知りませんが、100席にも満たない小さな劇場はその半分も埋まっていませんでした。日本でも人気があると思われるメグ・ライアン主演の「普通の映画」の割に、そもそもの公開規模が目立って小さい(私が観たのは先々週まで『ひまわり』が上映されていたのと同じ劇場です)のは、やはり「ダイアン・キートン監督」という「看板」にもならない看板が、配給者を些か及び腰にした結果なのかも知れません。まあ、それは些か被害妄想が過ぎる発想にしても、あるいは「メグ・ライアン主演」の大看板といえども、「恋愛もの」でもなければ(特に日本では)まるで無効になってしまうということなのかも知れません。


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