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溺れゆく女
監督:アンドレ・テシネ
2000年9月15日(シネマ・カリテ3)

 連続する三枚の写真



 私は以前、ある私鉄の線路脇のマンションに住んでいたことがありました。そこでは電車が通る度に騒音と振動が物凄かったのですが、しかし、暫くすればそれにも慣れてしまうもので、住み始めて1カ月も経った頃には電車が通ったのにすら気が付かないことも多くありました。
 そんな環境は至って映画的な記号として屡々目撃されるもので、私がそうだったかどうかはともかくとして、それは往々にして「貧乏人の住居」を意味しています。例えば、イギリスの階級社会を描いた『ハワーズ・エンド』に於いて、上流階級に翻弄されてしまう不幸な夫婦は、やはり高架橋脇のアパートに、それが見えるはずの窓が開かれることはありませんでしたが、幾度となくそこを電車が通過するのがその影と音とによって示されていました。この映画でもやはり、アリスとバンジャマンという絵に描いたような貧乏芸術家の暮らすアパートがそんな環境に、窓からは確かブルーの電車が、そんなものを何となく美しくも感じました。

 私が最近観た幾つかの映画、『60セカンズ』、『電話で抱きしめて』、『ミュージック・オブ・ハート』は、偶然にもそのタイトルバックに於いて「写真」が捉えられています。これらは何れも、例えばマーチン・スコセッシ監督などが得意とする手法の一つ、映画以前の物語をそこで捉える幾つかの写真によって簡潔に説明するという方法です。映画というのは「運動する連続写真」に他ならず、元来「写真」とは相性が良いようで、しかし、その運動の有無はやはり大きな違い、映画が写真を捉える場合、運動のない写真に配慮して、あたかも運動していないかのような動作に腐心せざるを得ず、そこには何となくの「無駄」が生じてしまいます。尤も、幾ら写真を捉えるからといって、カメラの運動をまるで停止させてしまうような無能な監督など余りおらず、(写真から写真へ)カメラをゆっくりとパン移動させたり、やはりゆっくりとズームアップさせたり、そんな工夫でなるべく無駄の生じないような心掛けが為されています。

 地下鉄に飛び込んだアリスが、ホーム壁面に貼られたマルタンのポスターを目撃する場面、それは彼女のマルタンに対する感情が微妙に変化していく過程を捉えた場面の一つなのですが、そこでは全く同じポスターが三枚連続して現れます。これはしかし、然して珍しい光景でもなくて、広告写真というのは得てしてそういうもの、何よりもその「しつこさ」こそが肝要なわけで、今どきの都会はそんなものに溢れています。ただ、此処で重要なのは映画としてのその効果、この場面では地下鉄が動くに連れそのポスターが次から次へと現れるように撮られており、つまり、本来運動を伴わないものに対する配慮に欠けている代わりに、同じ写真を三枚続けて見せることで、それが映画的な運動に耐え得るよう試みが為されているのです。
 同様の連続写真はまた別の場面にも登場します。やはりアリスが議会選挙に出馬するマルタンの義兄の選挙事務所を訪れる場面、急ぎ足のアリスが通り抜ける通路の壁面にはその義兄の選挙用のポスターがやはり三枚続けて貼られています。確かに、これもまた現実には然して珍しくもない光景、その類の写真もやはり辟易するぐらいの「しつこさ」こそが肝要、それが巧妙な心理作戦であるのは商品広告同様です。しかし、此処に於いて重要なのはやはり、それが映画的運動を妨げることなく、その存在を十分に示し得ているということです。カメラはあくまでも急ぎ足のアリスに合わせた至って映画的な運動を、そうでありながらも、同時に選挙ポスター(義兄が選挙に出馬するということ、その選挙が間近に迫っていること等々がそこに「意味」されています)という運動のあり得ない主体をそこに捉え得ているわけです。つまり、不必要に運動を断絶させる「無駄」がそこにはないのです。

 この映画はとにかく運動しているのです。撮影者に課せられた過度の肉体労働が心配にもなってしまうくらいにカメラは動き回り、時折カメラがその移動を止めることがあっても、その場合は被写体の側が忙しく動き回っているという、止まることを知らない不断の運動を我々は目撃することになるのです。そんな映画全体の性質の故にこそ、既述のような「3枚の連続写真」もまた必要として配置されるのであり、そこにはとにかく「運動を止めない」という頑なな意志が示されてもいるのです。それはこの映画の原題にも似たやはり原題を持つフランソワ・トリュフォーの名作すら想起させる独自のリズム感と良い意味での「軽さ」を映像に付加し、必要以上の深刻さをそこから排除することに成功していると言えます。また、カメラは時折意表を突くような切り返しをも見せ、それもやはり映像に独自のテンポをもたらしています。

 至って古典的なモチーフを主体としたこの映画の言語活動は、現在社会に対する様々な批判をもまた随所に鏤めています。軽佻浮薄は消費文化、旧弊な因襲による呪縛、あるいは政治の偽善等々、そんなところにもまた注目できる映画なのかも知れません。

 50席強の小さな劇場はガラガラ、ジュリエット・ビノシュという如何にもフランス映画的な女優が主演するフランス映画らしいフランス映画だと思うのですが、こういうのはやはり今どき流行らないのかも知れません。それでもまあ、配給され上映されるだけでもまだマシ、アメリカなどに比べると余程ヨーロッパ映画に対して好意的な日本国ならではのことなのでしょう。尤も、そういう状況は蓮實重彦が指摘する通り、都会、取り分け東京にのみ認められる状況でもあり、やはり彼の指摘する通り、映画は今どき都会生活者の特権的な娯楽と、私がこんな不便な場所を生活の場面としている理由の一つも、その特権を得るためと言って間違いはありません。


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