Index

 
ひかりのまち
監督:マイケル・ウィンターボトム
2000年9月17日(シネセゾン渋谷)

 夜の孤独、見慣れた風景



 喫茶店の窓の向こう側では若いカップルや、四、五人のグループがその与えられた時間の中に歓喜を見出していた。彼等は外からの視線などまるで気にせず、彼等の視界に捕えられるものだけをその未来に焼付けていた。私は喫茶店の前で、冷たい風に邪魔されながら煙草に火を点けようと立ち止まった。しかし窓の向こう側では誰も私の存在に気付くでもなく、ただ私自身が彼等とは違うこちら側にいるということを改めて実感したに過ぎなかった。

 私が何年か前に書いた小説の中の一節です。夜の街などを独りで歩いているときに不図襲われてしまう得も知れぬ孤独感を書いたつもりのものなのですが、恥ずかしい話、この映画を観ながら自身の書いたこの文章を思い出しました。この映画は何よりもそれに触れる人間それぞれに内在する風景をそこに想起させるもの、私とて例外ではなかったということです。

 もし手持ちカメラによる映像が通常のそれに比べてより現実的に感じられるとするならば、それは、それ自体が現実をより尤もらしく捉えているからではなく、同様の手法を用いた別の映像、例えば「ドキュメンタリー」のそれをその映像によって想起するからに他なりません。つまり、ドキュメンタリーやニュース映像という一般に「現実」を直接的に捉えるとされている映像は大抵手持ちカメラによる撮影ですから、その印象から「手持ちカメラ=現実的」という無意識的な構図が出来上がっているわけです。従って、他でもない「虚構」を捉える場面に於いて、単に手持ちカメラを多用したからといってそれが「現実的」な映像になるかと言えば、必ずしもそうではなく、それに加えてさらに「ドキュメンタリー風」の趣向を凝らす必要があるのです。例えば『ロゼッタ』という映画、やはり全編手持ちカメラによって撮影されているのですが、カメラが頑なに守る「節度」はまさにドキュメンタリー映画のそれ、如何にも尤もらしい「不自由さ」を捏造することによって、ある種の「現実感」を生み出しているのです。

 全編(多分)手持ちカメラで撮影されたこの『ひかりのまち』が、しかし、効果としてどれほどの「現実感」をも伴っていないのは、カメラが余りにも「自由」であり過ぎるからなのかも知れません。例えば、パブのカウンターで陽気に酔っ払うダンを捉えるカメラはカウンターの中に、そこにはドキュメンタリー的な「節度」などまるでありません。また、街を彷徨う人物を捉える場合も、最初の数秒間は如何にもドキュメンタリー的に少し離れた場所から人物の背中を追うのですが、その後カメラは決まって人物の正面から切り返したショットを、カメラの位置もさることながら、そのモンタージュは明らかにある種の「現実性」を意図的に抛棄したものと言えます。やはり『ロゼッタ』を引き合いに出せば、人物の移動に際して、カメラは大抵の場合その背後から追い掛けるようにその背中を捉え、人物が急ぎ足になると時としてそれに追い付けなくなることも、ある種の状況を企図した場合に守られるべき「節度」とは即ちそういうことです。

 勿論、この映画が何かに失敗しているというわけではありません。これはそもそも「現実主義」を標榜した映画では決してありませんし、そのつもりで手持ちカメラが用いられているわけでもないはずです。敢えて言うならば、例えば「ヌーベルヴァーグ」の特徴の一つとされる「現場主義」とでも、それは「現実主義」とは似て非なるものです。そもそも「現実」などというものは、何気なく日常を遣り過ごしているだけでは発見し得ない性質のものであり、あるいはむしろフィルムやテクストなどを介してそこに「導かれる」ものとでもした方が適当なのかも知れません。「現実主義」の視線は、まさに目を凝らしてそれを我々に発見させようとするのであり、そこに捏造された距離感ですら、ある種の便宜に他なりません。他方、それが必ずしも「現実」とは言えない、我々が日常的に肌に感じている曖昧な空気のようなものをフィルムに捉え、「虚構」にある種の親近感を伴わせるのが「現場主義」とでも言うべきか、それは決して何らかの「発見」を促すものではなく、見慣れた風景をそこに想起させるだけのものなのです。そこに於いて「虚構」はあくまでも「虚構」に過ぎず、何らかの思考を要求する類の「尤もらしさ」が捏造されることもありません。それは「現実主義」とはまるで正反対の手法、つまり巧妙なモンタージュが多用されていることにもまた明らか、むしろ「現実主義的」なあざとさを回避するためにこそフィルムは切断されたのかも知れません。何れにせよ、我々に「身近」なものが即ち「現実」でもないと、この「メルヘン」は物語っているのです。

 マイケル・ナイマンによる大仰にして至って扇情的な音楽を評価する向きも多いようなのですが、個人的には、その手の音楽一般がそうであるように、些か煩わしくも感じてしまいました。尤も、16ミリをブロウアップしたせいで粒子の粗くなってしまった映像の質感や、手持ちカメラの多用による視覚としての不安定さとの絶妙のアンバランスがむしろ効果的だったとは思いました。あるいは、これもまたこの映画が「現実主義」とは程遠いことを指摘し得る要因とも言えるのかも知れません。それは『ロゼッタ』に(唯一の例外を除いて)まるで音楽がなかったこととの比較からも明らかです。

 それは多分、「シネセゾン渋谷」という映画館に対するものだと思うのですが、何となく「いつも混雑している」という印象があるので、個人的な用件の絡みで午前中の回に行ける日を狙って観ました。日曜日とは言え、さすがに午前中はガラガラ、あるいはその印象自体が間違っていたのかとも思ったのですが、しかし、私が劇場を後にする際に目撃したのは午後からの回を観るために並ぶ長蛇の列、やはり午前中に観て正解でした。


Index